レクイエム


「ザンドラ・ヒュラー 変幻する〈わたし〉のかたち」にて観賞、2006年ドイツ、ハンス=クリスティアン・シュミット監督、70年代に悪魔祓いの儀式を受けたドイツ人女性アンネリーゼ・ミシェルの実話を元に創作された作品。1.2倍速で見せられているようなせかせかした映像がずっと続き、ここで終わったらどうしようというところで終わる。「時間は贈り物」と言う主人公のそれをあまりにあっけなく終わらせたものは何なのか。

教育学の初回の授業に遅刻したミヒャエラ(ザンドラ・ヒュラー)を座らせず教授は「君は何を信じている?」。神との返答に笑った学生達の一人に「それじゃあ君は?」と聞いても答えは無し、教授いわく「それが問題なんだ」。このやりとりは全ての問題が彼女の方にはないと言っている。他の大人達がミヒャエラの領域にずかずか入り込んでくるのに教授は遠くの教壇にしか姿を表さないことから、本当の助けに人は届かないという話に私には思われた。

一年の休学の後に21歳で入った「悲願の」大学の寮にまで、両親と実家の教区の司祭と別の司祭の大人四人がやってくる。「君のことを私達で話し合ったんだが意見がまとまらない」にミヒャエラは「私のことって何だか分からないけど」。当初自分を避けているふうのハンナと彼女がどうしても友達になりたかったのは、それが他の世界への入口だからだろう。昏睡して運び込まれた家で両親の祈りを罵り遮断し物を投げ豚箱を掃除しなと吐き出す姿は反抗という概念の具現化に見えた。

父親に暴力をふるわれ「もっと早くけりをつけるべきだった」と寮に戻ってくるハンナと、食品会社の跡取りで年末に帰省していないステファンがミヒャエラに寄り添う。車の中のミヒャエルへのハンナのガラス越しのキスは、教会で皆がしていた神へのキスよりずっと「近い」ものに感じられた。一方で大学の課題を「悪魔に妨害されている」と思う、いや思い込まされている彼女に呼び出されたステファンが二晩も寝ずにレポートを書いてやるくだりには、このくらいの献身は男女逆なら(少なくとも映画やドラマでは)ままあることではと思ってしまった。自分を支えてくれるかと問い、避けられれば責めるなどミヒャエラは二人に激しく頼るが、女は病気になってようやく男にここまで寄りかかれるのだと。