ジョーンの秘密


スパイ(を扱った)映画の多くに登場するスパイはその時点で既にスパイであり自覚も備えているが、本作の主人公ジョーン・スタンリー(ジュディ・デンチ)はオープニング早々に逮捕されながら昔も今も自らをスパイとは思っていない。これは彼女がそう見做されるようになるまでを描く物語である。

勤務機関が核兵器を開発していると知ったジョーンの疑問と困惑に、後の夫であるマックス教授は「我々は科学者だ、政治は政治家に任せる」と答える。この映画の彼女はいわば全人的な存在である。科学者でも政治家でも本当に何でもなく、「皆」によかれと思ったことをする。誰かが何かを手にしたなら、皆で分け合うべきじゃないか?(実は私もそう思う)この素朴とも言える信念を描くための映画だろうかと考えた。

ジョーンが自分とはそれぞれ違う信条を持つレオ(トム・ヒューズ)や教授に恋をし、後者とは結婚までするなんて矛盾、いやカオスと言ってもいいだろうか、それが面白くはあり、全人的というのとも合っているように思う。久々に再会して泊めて欲しいというレオをベッドに入れるために布団をめくる、あのカットがこの映画で一番よかった。

冒頭、ジョーンはロシア系ユダヤ人のソニアの置いて行った「赤い靴」を履いてしまう。以降、「不倫を彼が知ったら…」なんてことまで、全てがソニアの描いた通りに進む。尾行されたらランジェリーショップへ逃げ込む、捜索があれば生理用品で目くらましする、ソニアの伝授するそれらは「君は紅茶係かな?」の裏返しである。「やけに高学歴の司書だと思ってた」とは息子ニック(ベン・マイルズ)の言だが、学友達は何になったのだろうか。

デンチの色のあるようでないような演技は、私の知っている、いやあの時代を知っている、知っている上で何をしようとともあれ知っている者がもう誰もいないということによる空虚であるように思われた。その真逆、つまり今を生きているのが「国を裏切った」と母を責める息子なのである。映画はそこに風が吹いて…過去と現在が通じて終わる。