
コミュニティシネマフェスティバル「日韓映画館の旅」にて観賞、2024年オ・ジョンミン監督作品。
「韓国の女性が座る時に膝を立てるのは秋夕などの準備で日がな座っていても腰を痛めないよう」との文を昔、韓国語の教材で読んだのを、真偽はともかく皆でお供えを用意している女性達の登場に思い出した。尤も「嫁」だけは時に立つ必要にも迫られる。法事のいわゆる本番でも嫁のスヒだけが韓服姿、他の女達はそれなりに楽な格好をしている。一人だけキリスト教徒なので頭は垂れない長女ヘスク(チャ・ミギョン)の生活感あふれる全身に対し、夫と起業しベトナムに住む次女オクチャ、更に後の葬儀に現れるその娘の格好などは外の者のそれである。しかしスヒの韓服が男達の正装と意味が異なるのと同様、格好の自由度は権利があることを意味しない。
ソウルから戻った長孫のソンジン(カン・スンホ)は、大木の元で撮った集合写真にヘスクの入院中の夫の姿を合成する。誰かが大切に見るためではなく家に飾るための写真がこんなふうに「何とでもなる」なんて、家族がもう上っ面だけのものであることの表れだ。しかしその体面はいまだ皆を支配しており、ソンジンに対しセッキャ、お前死ぬ?なんて軽口を叩く姉のミファ(キム・シウン)も弟が来るまで祖母にエアコンを付けてもらえないし、祖父にもの言う際には弟を立てる(…といったことが前半次々とコメディ調に描かれる)。その中で最も表立って大きな対立が、ソンジンの祖父と父(家長と長男)の間にあるのが印象的だった。
映画の終わりにミファに子どもが生まれはするが、最初からずっと、世界は死に向かっているという話に私には見えた。しかしそこには日本人とは異なる事情が横たわっている。「てんぷら」「そでなし」などの日本語を使いハングルの読み書きはできず(ミファに韓国料理の作り方を書き残すためソンジンに習っている)、義理の両親の顔は見たことがないという祖母の描写に始まり、終盤にはこのチョッパリめ!と夜中に起きて叫ぶ祖父の口から語られる、「キム氏は生き残った者の家系」なのだと。「私だけが生き残ってしまった」と日本語で嘆く祖父が家を出ておそらく戻らないラストシーンは、話が個人に収束し家族が霧散することを予感させる。