ファーストボイス


まず、この映画は実話が元なので、これをした女性達、何て強いんだ、感謝してもしてもし切れない、と思って見ていたというのを前置きとして…

朝日(綾瀬はるか)を尊敬し共に働く藤野(松本穂香)が「女性のためじゃなく自分のために仕事がしたい」と言って出て行くも、全女性が受けている被害に遭いショックを受けて戻ってくるというのがいい。裏返せば男は男のために働く必要はないと言っているからだ(セリフか何かではっきりそう言ってもいいと思ったけれど、また無報酬という問題が軽く流されているのが気になったけれど)。これは、例によってまた引用するけれど『ナミビアの砂漠』(2024)で中年女性につき軽口を叩いていた主人公が一人の女性の問題は私たち皆の、社会の問題だと気付くまでの話というのと同じだ。今日もまた身近な男性の下衆さに傷つけられた、それでもって何かに気付いた若い女性がいただろうことを思うと、その道のりを何とか傷の少ないものにしなければと考える。

原告の上原(ファーストサマーウイカ)はどうだろう。朝日と向かった集英社の巨大なビルを見上げた彼女が、会議室で宮本(木村多江)と朝日の間に挟まれ自分を無視してボールがやりとりされているように、自分が透明人間になったように感じたに違いない顔が印象的だった。ただでさえ自分じゃない「原告A子」なのに、魂も消されてしまったような。これもまた、男は男の代表になる必要がないということの裏返しだ。弱い立場の者が分断されてしまうというのは多くの映画に描かれておりこの映画もその一つだけど、この話は「私達の『代表』」の意味するところの複雑さに困難があるわけなので、それゆえの気持ちの複雑さや変化に注目して見ていたんだけど、納得できる描写はなく裁判に至ってしまい残念だった(そもそも私の見たいものほど省略されてしまう映画だった、例えば記者会見で男性らしき記者の声で質問がなされたところで場面が切り替わってしまうなど)。

映画によると原告側の主張は性的な悪評をばらまかれたこと、それによるトラブルで退職させられたことはいずれも女性ゆえであり「日本国憲法第14条の法の下の平等に反している」。この裁判において上原と仲間の溝が最も拡がるのが小松(工藤阿須加)との件で、自分が長々と侮辱されている間だれも口を挟まなかったことに傷つくも弁護士達に弁明されるというのがこの映画で一番悲しい場面だが、その後の展開も釈然としなかった。朝日の最終弁論の冒頭の「ボディコンスーツ」はそもそも男性のための服じゃないとは、私達が受ける差別の中で今なお最大の一つである、女性が性的だから何なんだという問題には関係がなく、そのことが悲しかった(もしかしたら実際ああいう弁論だったのかもしれないけれど、これは今の映画だから)。

ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?


万引きに見て見ぬふりをする店員、「いつものように作りすぎた」エンチラーダをくれる顔見知り、killの言葉が残るオープニングタイトルより前に描かれているのは人間らしさに溢れた普通の世界である。あの人は弱っているようだからできるだけのことをしようという。しかしベトナムから帰国したアレン・ネルソン(マーク・マーフィー、長じてロドニー・ヒックス)は他の人間を受け入れられず、猫を抱いて廃屋で日々をやり過ごす。「人を殺した記憶は一生消えない」からだ。

精神科医ダニエルズ(ジェフリー・ラッシュ)が後に手探りだったと言うカウンセリングは、ネルソンが体験してきた暴力の全てを辿るものである。父の母への暴力、踏み込んできた白人警官による父が二週間寝込むほどの暴力、海兵隊に入り初めての地で上官が娼婦やタクシー運転手に残虐な殴る蹴るの暴力を振るう沖縄は「テーマパーク」と表現される。ベトナムでの最初の殺人の際には上官がトロフィーとして削いだ耳に嘔吐するも、立小便時に「ベトコン」に銃を突き付けられすんでのところで撃ち返し、それからはもう、いきりたって先頭に立ち、殺し尽くし焼き尽くすのが日常となる。

「なぜこの国へ来るんだ、自分の国で差別と闘ったらどうなんだ」に疑問を覚えたところへの「人生を変えた」瞬間とは、出産を目の当たりにして自分が相手にしているのは人間だと分かり洗脳が解けたということなんだろう。ヘルメットを脱いだネルソンが子ども達と遊んだり薬を流すようになったりするのは、そりゃあ大局には影響がないかもしれない、しかし後に妻リンダ(タチアナ・アリ)が言う「世の中は簡単じゃないけど私は知ってる、あなたは優しい人だ」ということなんだろう。

何度目かの「なぜ人を殺したのか」との問いにネルソンが「殺したかったから」と答えると、ダニエルズは「一歩一歩進んでいきましょう」。それを認めて初めて、父の暴力や貧困に感じていた怒りこそ自身の暴力の根だったと気付くことができる。そしてネルソンはダニエルズに打ち明けた内容を「小さな部屋」じゃなく大きく開かれた場、とりわけ子ども達の前で話すようになる。実際のところは知らないけれど、活動を続けるうちにリンダやダニエルズと袂を分かつことになるのが心に残った。非情という意味でなく、話すことの本当の意義は自分しか分からず、道は最終的には一人で歩むものだと。これもモデルとなった人とは違うのかもしれないけれど、黒井を演じるリリー・フランキーの、仲間感の無さとでもいうものが効いていた。二人が船に静かに離れて乗っている画が印象的だ。

プーチンの愛国教室


「教師への期待はこれまでになく大きくなっている、戦争を勝利に導くのは現場の司令官ではなく学校の教師なのだ」というプーチンの言葉は重い、その通りだから。その原理により、特別軍事作戦が始まった日から、ロシアの小さな町カラバシュの一番大きな学校の行事運営兼撮影担当教員のパヴェル・タランキン(パーシャ)は台本に沿った教育実践の様子を撮影し当局のデータベースにアップロードせねばならなくなる。当初は「先生は強制されたことを話します」「そういう時には二度まばたきして!」なんてやりとりや初めて口にする言葉につっかえる同僚を撮っていたのが、やがては子どもも渡された台本を読むことになる。ワグネルの講義に手榴弾投げ競争、教員の仕事が増え教科の授業数は削られ生徒の成績が下がる。笑いたいが笑えない。

これは「特別軍事作戦の影響を受けた職業体験募集」に応募したパーシャがデンマークの映画監督デビッド・ボレンスタインに映像を送ることで作られた映画である(カメラマンがパーシャを撮った映像も幾らかを占める)。近年多く見る「撮影しているうちに状況が変わってしまった」映画の一つといっていい。「2022年2月に(自分の仕事は)劇的に変わった」との彼の言は、変化の内容こそ違うが2020年の全国一斉臨時休業要請を体験した身としてはよく分かる。しかし実際のところずっと前からそちらに向かって進んでいたんだろう、今の日本を振り返っても。

苦悩が滲むパーシャの顔に始まるこの映画は、原題Mr. Nobody Against Putinの通り「誰というわけでもない者」がプーチンへの抵抗として映画監督になっていく様子を描いている(これは彼以外の登場人物を強調できないからというのもあるだろう、小さな子ども達は常に集団の一人としてしか映らない)。本音を話し合える相手もいないパーシャはカメラに向かって話す、「四方に壁が迫ってくる感じ」だと。軍人養成所と化した学校へ退職願を出すが、撮影した戦争支持者の集会の映像が町の図書館で流され若者達が見入っているのに遭遇し(「幸いリモコンを持っていたのでオフにすることができた」)自分がプロパガンダに加担していると思い知らされ、退職願を取り下げて「映画監督になる」ことに決める。そして「BBCの仕事だよ」なんて冗談と共に学校のあちこちに入り込み撮影を続ける。同じ物でも使い様ということが強く伝わってくる。

ラストシーンはヨーロッパへ逃れたパーシャが空にしたオフィス。そこは誰でも鍵を開けて入ることができ、お菓子と飲み物、音楽、ゲームがあり、在職中に外さざるを得なくなる白青白旗の象徴する民主主義と反戦の場であった。幼少時から「他の男の子達とは違っていた」「家でも孤独だった」彼は自分が子どもの頃に欲しかった場を学校に作ったのだと言う。この映画を見て心に残ったのは、戦時下でない限りは戦争につきどんな意見の者でも…「男は戦争に行くものだ」と言う母親も、プーチンのもと大統領府で働きたいと話す生徒も、それこそ軍事教育に余念のない歴史の先生のアブドゥルマノフだって一緒にいられたということだ。しかし戦争となるやそういった類の曖昧さは踏み潰されてしまう。祖国という概念のもとで人々が離れ離れになってしまうなんておかしい。

ディスクロージャー・デイ


今にも「カット!」という声がかかりそう、映画少年の見ている夢かなと思わせる冒頭の一幕から、音楽含めあまりにも見慣れた要素ばかりのダニエル(ジョシュ・オコナー)のパートはジム・エイブラハムズの映画でも見ているようで笑いそうになるほどだったけど、ウォーデックス社に車が滑り込んでいくだけの画でもうっとりさせるカメラとジョシュの演技が引き留めてくれる。

これは人間が未知の物を受け入れ変化することを願う二人、ダニエルとマーガレット(エミリー・ブラント)が遂に出会う話である。拡大鏡の中の瞳のアップに始まるマーガレットのパートは、「セクシーな『お天気お姉さん』」であり続けることを求められている彼女が肌を覆うジャケットを着てアンカーになるまでの話、女に「変わらない」ことを求める男(「一秒でいいから座ってくれ」)とは愛していても別れた方がいいという話でもある。

ヒューゴ(コールマン・ドミンゴ)によれば、あのデバイスは「心を委ねさえすれば、望むものを見られ、思うままに操れる」装置。人間同士だって、無言の時でも例えばジェーン(イヴ・ヒューソン)はシスター・モーラ(エリザベス・マーヴェル)と車のガラス越しに、ダニエルとはリュックを間にコミュニケーションを絶え間なく行っている。スキャンロン(コリン・ファース)がデバイスでジェーンにダイブするのはいわば「ずる」だが、それはそれで面白くなるのが映画だから、彼と彼女の攻防は見どころだ。

ヒューゴが「全てを知っている」のは、謙虚に精進すればあのようになれるということだろうか。元同僚のスキャンロンが道を誤ったのは妻を失った悲しみゆえとの設定にまたそんな話かと思うが(今は富と権力に取り憑かれているというのは現実的な批判だと思うが)、それならばマーガレットに何も見抜かれないボイド(ヘンリー・ロイド=ヒューズ)のような人はどのような存在なのか。彼女に心を読まれた人々が涙を流すのは同じ領域を共有することの恍惚さゆえだと思うけど、私なら何を言われたらどうとか想像がつかない。

宇宙の言語である数学の才を授かったダニエルが「本来は80億人のもの」である情報を盗んで逃げる決意をするのは、命あるものが虐待されている映像を見たから。それこそが人々が共有しなきゃならないことだというのがスピルバーグ達の考えなんだろう。マーガレットのように「家」は用意されない彼が、モーテルからヒューゴに電話し子どもの頃の記憶の欠落を話す場面がなぜだかとても心に残った。窓の外を通り過ぎる車のライトがいかにもスピルバーグで、今にも汽車が飛び込んできそうだった。

ファーストライド


「三銃士と出会ったダルタニャン」であるヨンミン(チャウヌ)の「これは悲しい話」とのナレーションで登場する制服姿のカン・ハヌルからしばらく何だこれはと見ていたんだけど、終わってみればこれ以上ないほど韓国らしい映画だった。女版もがんがん作られた後でもう見なくなったアメリカ映画の一つの型を韓国らしく作り直した中に、他の韓国映画にも描かれているあることを忍ばせている…と言うのも違和感を覚えるくらい大きく埋め込んでいる。

ヨンミン一家のニュージーランド移民を前に、スヌンで満点を取ったテジョン(カン・ハヌル)は韓国人の口癖「今度」なんて実際ないんだ、を決め台詞にグムボク(カン・ヨンソク)ドジン(キム・ヨングァン)の仲間四人の親にタイ旅行を了承させるが、当日空港行きのバスに置いていかれてしまう。十数年後には議員補佐官となったテジョン自身が「今度」でもってその場をごまかす側になっていた。ちなみに乗り遅れる原因は例によってうんこ(うんこした後の洗っていない手を触れるか否かに友情が表れる)、バスに置いていかれるのも、韓国に行く度にバスに乗るけど毎度結構大変なのでああいうこともあるのかなと思う、どうなんだろう?

ドジンの「心の病院」からの退院を機に今度こそはと男達はタイへ飛ぶ。「旅行中は(高校時代のように)バカになるぞ!」って何をするかといえば空港から踏み出す映像がスローモーションに…と思いきや自分達でゆっくり動いていたという方向性不明のギャグ。この手のアメリカ映画のような性的要素が皆無なのが今らしく見やすいが、以降繰り広げられる、コ・ギュピル演じる案内人に騙されて留置場に入れられるのを皮切りにカン・ジヨン演じるバーテンダーに騙されて臓器を取られそうになるまでのトラブルは全てがあまりに他人のせい。そりゃあ「おれたち何もしてない」と感じるわけだ。後で明かされることを思えば道中は誰にも重きを置かずにおくのが正解だが、見ている間は奇妙な感じを覚えた(しかし、舞台が外国でも悪者は韓国人というのは真摯な態度だ)。

テジョンに恋するオクシム(ハン・ソナ)も旅の仲間。こっそりついてくるくだりはレニグラの「村のバカ」と言ったところだが、彼に近付く女達を追い払う描写などミソジニーが滲みそうなところを楽しく撃ってくるし、学生時代にテジョンの家に入り浸り洗濯物を畳むも当の彼には「そんなことより勉強しろよ」、同級生の女子には「老けてるから留年してるのかと思った」と言われるなどそこそこのアップデートはされている(韓国ドラマでは年長の俳優が学生役のシーンで「老けている」と突っ込まれるのが定番だが、女性が言われることはあまりないので)。全然主体的なキャラなのに日本の宣伝で消されているのは変だ。

(以下「ネタバレ」しています)

「チャウヌの抱き枕」が登場した時点で「悲しい話」の意味するところは予想できる。男が等身大の人形を担いであちこち、とりわけ海へ出掛ける様は私の世代には『バーニーズ』(1989年アメリカ)にしか見えないが、これは例えばセウォル号沈没事故の後にも語られたような、生き残った者の罪悪感を仲間と共に乗り越える話なのである。私としてはこれまでの映画ならそうしたであろう、実在の事件に寄せてもよかったのにと思った。

レズビアン・スペース・プリンセス


レズビアンで宇宙の人でその上プリンセス!というオープニングタイトル。女ばかりで楽しいと思うも、レズビアンの星「やり方さえ間違えなければ秘境じゃない」クリトポリスはバブルによって外から遮断されているに過ぎないのだった。王女サイラ(シャバナ・アゼース)は出回っている取説の通り絶対どこへも出かけなかったが、弱点である元カノのキキ(バーニー・バン・ティエル)を人質に取られ24時間の冒険の旅に出る。タンブルウィード然り、見たことありまくりのあれこれがこんなにも楽しくなるとはという映画。王女の誕生会のステージではまんこが踊り、「伝説の武器」ラブリュスは股間から生まれる。

バイセクシュアルのウィロー(ジェマ・チュア=トラン)がわあ最高だねと言うサイラのスタイルは「キキの上着を脱いだだけ」…彼女が選んでしていたけれどそれまで見せなかった格好だ。自分を大事にするよう成長する主人公に対し、サイラのママ達は乱交パーティだの何だのと家を空けて育児放棄し、恋人がいない娘を陰気だとけなす。元カノのキキは「超ホット」だけどサイラが最後に気付くことに「常識的に考えておかしい」。ドラァグクイーンのブレイド(クイーン・コング)は人の命も何とも思わない悪党だ。こんなふうにクィアの中で物語における役割分担をしているのがいい。ママ役はトランス女性のジョーダン・ラスコプロスに女だけのラストシーンが最高だったドラマ『デッドロック』(2023年オーストラリア)のマデリーン・サミ(これは彼女演じるエディがレズビアンになるまでの話だと言える)と、私がまだまだ知らないオーストラリアが色濃いのもありがたい。

作中唯一「実物」として爆破されるのは、『オズの魔法使い』のように小さなちんこが操っている大きなちんこ。しかし、精液を撒き散らかして周囲を威嚇するそいつは殺されるが、この映画の「男」、というか人間への目線は優しく温かい。サイラが乗り込んだ(クリトポリスにおける)厄介もの、21世紀の宇宙船(リチャード・ロクスバーグ)は最終的にアライに、キキを誘拐したストレート・ホワイト・メイリアン(マーク・ボナンノ、ザカリー・ルアン、ブローデン・ケリー)は最終的にその3人で愛し合うようになる(だってあんなに理解し思い合ってるんだから!)

「衝突実験に使われる人形は女の体型」「スマホの大きさの基準は女の手」なんてお馴染み(の男女逆)のあれこれをあんな「男」が知っているわけがない(と断言)。ここで描かれているのはバックラッシュではなく、弱い立場に追い込まれた者は勉強するということなんだろう。そう考えたら、当初はパイロットといったら男だぞ、なんて言っていた宇宙船が、サイラとウィローが愛し合うらしいと気付くや「『アデル、ブルーは熱い色』についてどう思う?」と話しかけてくるのは、全く男ってあれがいいと思ってるんだから…というより当事者に聞いて勉強しようという気持ちから出た言葉なんだろうか?

軋む日々


現代ポルトガル映画傑作選2026にて観賞。2023年ポルトガル・フランス、ジョアン・カニージョ監督作品。

オープニングに撮影レオノール・テレスのクレジット。前日『とある蛙のバラード』『水脈』(感想)を見たところで、それ以降の作品を知らないから、私としてはまず、同じものが映っているという見方になってしまった。「普通の男性」を抜いて、女達、水、家と仕事場。しかしプールは川ではないし、家と仕事場を兼ねるホテルは少なくともピエダーデ(アナベラ・モレイラ)にとっては「家ではない」。プールは泳いでも移動できない場所、ホテルは客が通り過ぎる場所…ここでは客の喧嘩や揉め事の数々は、外に出てまでというより人生の過程に思われる。一部や他の面が見えない状態を見せるやり方は、こちらでは私にはくどく感じられた。

女主人然として登場するピエダーデがいわばアウトサイダーだという話である。ソファでその母、娘、妹、従妹の四人が隙間なくくっついて座りアルバムを見ながら笑い合う姿は完成したパズルのようだが、「普通」じゃないピエダーデが入ってくると隙間ができばらばらになる。面白いのは、母サラ(リタ・ブランコ)や妹ラクエルは娘サロメ(マダレーナ・アルメイダ)の前でピエダーデにつきああだこうだと評価するが(これを本人が聞いてしまう、韓ドラもかくやの場面の数々)彼女は他人につき判断を下さないところ。娘に精神鑑定を施しそれを本人に、よかれと思って「もしものために持っておけ」と渡す。それは他の女達に認められるものではない。

冒頭ベッドの端に腰掛けるピエダーデの裸がくたびれきった肉塊のように撮られるが、予期せぬサロメの来訪からこっち、母娘セットで艶めかしく撮られるようになるのがよく分からない(ついでに言うならああいう時にムダ毛処理をするのもよく分からない)。女達はいずれも黒髪が印象的だが、白髪がそのままの祖母こそ一番黒々して見える。生来のパワーを持っている彼女に対し、母は涙で滲むアイライン(なぜ一番よく泣くあんたが、というやつだ)、娘は剥げ掛けた、というかほぼ取れているネイルで黒をまとっている。あの子は太ってる、太ってないなどと言うサラに比べ、唾をつけた指先で娘の顔を直してやるピエダーデの何と不器用なことか。私はあの結末は好きになれない。