テムガ 偉大なる巫堂(ムーダン)の歌


「ポムミチョッタ!シネマコレクション」にて観賞。2022年韓国、イ・ハンジョン監督作品。20代と30代の新人巫堂(ムーダン)二人が不動産ヴィランと闘うところに今は落ちぶれたベテラン巫堂が絡む。

話はシンナム(リュ・ギョンス)が雑居ビルの一室の10週修了の巫堂塾に通っているのに始まる。出来は芳しくなく優等生のチョンダム(ヤン・ファンミン)とのバトルに負け、差し出された手に中指を立てる。巫堂文化を知らない私は色々誤解してしまうんじゃないか、大丈夫かなと見始めたら、師匠(ナム・テウ)が自身が受け継いだと軽く教えてくれるテムガなるものが「民主化運動の頃にある巫堂の夫が編み出した」という盛大な作り物で(ビデオテープの内容映像で特別出演のユン・ギョンホが必要以上にコミカルに演じる)それじゃあと安心して見た。

テムガとは「私の告白」であり、それをすることにより霊が語り返してくれるのだという。シンナムは大学を卒業しても就活に失敗し引く手あまたと聞いて塾に払った受講料1000万ウォンを母親に返すよう言われていることを、チョンダムはその顔で?と言われながらもナンバーワンホストとして君臨してきたが手入れで捕まり父親に殴られたことを(「警察は女の店にはうるさくないくせにホストにはきびしい」)、そしてマ・ソンジュン(パク・ソンウン)は酒におぼれるうち霊がおりてこなくなったことをMCバトルのように訴える。「哭声」や「破墓」のそれに比べたら全く迫力のない儀式のシーンが却ってリアルで悪くなかった。

巫堂が全員男性なのは、元々ほとんどが女性なのであえての選択なのだろうか。塾の生徒に男性が多いところには就職難が表されていると言える(仕事がなくなれば女性の領域に男性が入ってくる)。かつては「魔性(マソン)」と言われたマ・ソンジュンのある女性への「おれが君を守る」なんて言動はパク・ソンウンが演じることでキモさが漂白されている(でもって結局は自分の方が助けられることになる)。作中最初にはっきり顔の映るチョン・ギョンホが「移住契約書!」と殴る蹴るを繰り出す悪役を演じているのは新鮮で、かつて自分達一家が追い出された地区を支配しようとしているのには「第七地区」という邦題がふと浮かんだ。

メーデー 彼女たちの戦争


「未体験ゾーンの映画たち2025」にて観賞。2021年アメリカ、カレン・シノーレ監督作品。

マーシャ(ミア・ゴス)のアナ(グレイス・バン・パタン)への肉体的な接触には性的な、しかし彼女を対象としているというより同化しているような、あまり無い感じを受けたんだけど、あの世界はアナが作っているんだからそりゃそうである。マーシャの発する言葉の全てはアナが、いや私たち女みなが知っていることに他ならない。女は苦しい格好を取り続けることができる、女は存在を消すことが得意、最底辺にいるんでしょう、それなら飛び込んでしまった方がまし。火と水、上と下、この映画には概念を苦し紛れに掻き回すイメージがある。

夢と分かっている夢の中で、自分を暴行した男を、銃という武器と仲間たち、それから「暗闇でも見える」という自分の得意技でもって追い詰めやっつける。それは何になるのだろうか、私のことでない限り私がそれを判断する権利はないのだろうかと考えていると、アナは現実に戻ることを強く選ぶのだった、「『キッチン』に戻るの?」に「やるべきことは分かってる」と返して。映画は彼女が親友ディミトリ(テオドール・ペルラン)のキーボードに合わせて堂々と歌い始めようとするのに終わるが、あの後どうするだろう?私は連帯と告発と見たけれど。

マーシャいわく「だんだん若くなってくる」、すなわち終わらない戦争に駆り出されている男たちを『恋はみずいろ』で踊らせる一幕は、そのあり得なさがアナのいわば憂さ晴らしのように映り切なくなるも心掴まれた。害悪である男たちを殺すのに「女は見捨てられないから」と救助を求めておびき寄せるというのも、何とも矛盾しているが実感としては「分かる」。しかしここ数年とりわけ増えた時間ものの映画やドラマのようにクライマックスとして置かれたアナの帰還のくだりには、このストーリーで盛り上がるべきはそこじゃないだろうと違和感を覚えてしまった。

蝶の渡り


英語併記の映画も多いなかジョージアの絵の数々にジョージア文字だけのエンドクレジットを見ながら、ラナ・ゴゴベリゼが自伝『思い出されることを思い出されるままに』で、日本に滞在した時に「街を彩る美しい文字」に魅せられた、ジョージアの広告も英語ではなくジョージア文字を使うべきだと述べていたのを思い出した。彼女が金継ぎに着想を得て書いたという『金の糸』(2019)で主演していたナナ・ジョルジャゼのこの新作にも日本の要素があるが、アメリカのお金持ちの家のメイドが「二人とも日本人」というのは雇い主の日本趣味を強調しているのか(映画の)ジョークなのか、結構あることなのか。

バレエダンサーだったが今はビルの窓を拭いているニナ(タマル・タバタゼ)は「王子様」に見初められアメリカへ渡り、買い手のない服を作り続けるロラ(タマル・ブズィアバ)もそれに倣ってイタリア男を捕まえた…と思いきや彼は蝶のためジョージアに留まると言い出す。このエピソードの冒頭が『厩火事』を彷彿とさせるので(世界に共通する「笑い」なんだろう)落語のようだと思っていたら、最後に娼婦を名乗る元オペラ歌手(ダレジャン・ハルシラゼ)が私にも誰か見つけてくれとやってくるのが笑える。『ロビンソナーダ 私の英国人の祖父』(1986)も『シェフ イン ラブ』(1996)も赤軍侵攻前後の異国の男とジョージアの女の愛を描いていたが、数十年後のそれにおける女は「娼婦」だというわけである。こちらの方が安泰を望めるのだから皮肉なものだ。この辺りの肝の据わった喜劇具合にはぐっときた。

「蝶は風が吹くのを待っている、風に乗って正しい方へ行くことができれば生き延びられる」。1991年の独立から戦争を経て27年、いまだ踏みにじられ政情不安で芸術では食い扶持の稼げないジョージアには飛んでいく蝶と留まる蝶がいる。出国するニナと別れを惜しむ、「ミラノの巨匠」の代役で舞台衣装のデザインを請け負うコスタの指や爪の黒ずみは芸術家のそれではない。しかし彼は残る。翻って「生涯で一番の美女」と結婚したいと言えば結婚できると思っているアメリカ人や音楽家を二人一緒でなければ雇わないと言い切るアメリカ人は希望通り蝶を連れ帰る。背に腹は代えられずアメリカへ渡ったミシャとムラがネイティブアメリカンの音楽に親しんでいるのに冒頭バッハにベートーヴェンの旋律を楽器で口で奏でていたのを思い出し、世界を巡る文化の豊かさを思う。でも飛ばされていったままではフェアじゃない。映画は蝶は正しいところへ帰ってくると言っている。「希望は過程より大切」の前者を描いているのだとしても。

高校2


フレデリック・ワイズマンの足跡 1967-2023 フレデリック・ワイズマンのすべて」にて観賞。「クリントン中流の黒人に支持されてる」「生まれたばかりの赤ん坊はコーンヘッズ」なんて生徒達が喋っている頃のアメリカが舞台(制作は1994年)。

220分のドキュメンタリーはデボラ・マイヤーが職員生徒集まっての場でCentral Park Eastについて、すなわちここがどのようにデザインされた学校であるかを語るという、知らずに見ていたなら種明かしとも言える場面に終わる(彼女が話し始めるや隣の人がお手洗いに立ち、帰って来てからはそのまた隣の人と喋っているのが面白い)。構成の妙なのか私の先入観なのか、現場では絶えず同じこと、同じ努力が続けられているに違いないのに、学校教育が現実の厳しさのうねりから逃れようとしているドラマが見えた。

映画はロドニー・キング事件について語る白人生徒とそれを引き出す教員らの姿に始まる。次いでインターンシップの報告を聞く教員、授業をさぼる理由を聞き出す教員、特長である少人数授業での指導を含め学校のあらゆる場でほぼ一対一で行われている対話の様子からは、生徒が持てる全てを駆使してその場に臨んでいることが伝わってくる。在学中に妊娠し15歳で出産、復学した女子生徒や、18歳で既婚で子どもがおり働きながらの通学を再開した男子生徒の口から、女子が妊娠を誰にも話せず出産に至ったという事情が語られるのを聞いて、ここで行われているのは、授業以外は「既に起こったこと」への対処のための話し合いなのだとふと思う。その目的は非暴力であり、それによって実現されるのがデボラ・マイヤーの言うpolitical citizenの育成なんだろう。それと教育をイデオロギーの道具として使うこととの間には広く曖昧な領域があるとも語られる。

しかし様相が次第に変わってくる。映画の半ば、学年やカテゴライズを超えた授業の是非についての教員達の会議の場面が「生徒が大学に行けなかったら?行ってもやめるはめになってしまったら?現実を踏まえなくては」といったような発言で終わる。続く専門家が担当教員を集めての、教育委員会が潤滑剤ありとなしの二種類を提供したというコンドームを配布する授業のレクチャーでは、教員が「説得」するしかない状況もあるということが示唆される(1994年とはそういう時代だったのか、避妊よりも感染症の危険ばかりが言われ、今の目では妊娠の可能性のある女性の体の負担についての配慮が皆無のように見えてしまう)。授業をさぼる生徒への「先生が正しい!」、レポートを提出しない生徒への教員二人と母親による叱責などが続き、奇妙なことに笑いが込み上げてくる。抑えつけられているものへの同調、つまり苦しさから逃れるための笑いなのか何なのか、分からないけどよくないなと思った。

ザ・リッツ/カブーン!

特集上映「サム・フリークス Vol.30」にて「ゲイ映画二本立て」を観賞。二作の間はもちろん、映画館で見ている「今」の映画とも繋がりまくっていて面白かった。


▼『ザ・リッツ』(1976年アメリカ)はオープンリーゲイである(いつからだろう?)テレンス・マクナリーの1975年の舞台を元に、リチャード・レスターがほぼオリジナルキャストで映画化した作品。

大雨の中、大荷物の主に男達が次々通っていくフロントでの長いドタバタの後に主人公ガエターノ・プロクロ(ジャック・ウェストン)がゲイサウナ「ザ・リッツ」の中に入ると場面一転、聞いた通り実に「何でもある」のは、「レーガンジョン・ウェインの愛人だったんだから!」「芸能界はお仲間だらけ?」にも通じる、外からは見えないけれどゲイの世界にだって勿論何でもあるという比喩のように思われた。振り返ると老舗ホテルふうの入口の屋根からして面白い(参考リンク)、ガエターノだってあれで信用して入ったに違いない。

リタ・モレノ演じるグーギー・ゴメスは、ショービジネス界で活躍中の「女優」の名前をガエターノがあげると「あいつらは偽プエルトリカン!私は本物」と憤慨する。マイノリティの演技をするマジョリティは有名になれるが実際のマイノリティは活躍できないという今なお続く差別が表されている。彼をプロデューサーと勘違いして「枕営業」を持ちかけまくるという昔はよく見かけたキャラクターもザ・リッツの中では楽しく映り、三流という役どころながらステージは全然すてき(リッツボーイズ…じゃないダフ&タイガーとの舞台には安全に撮影できたのか心配してしまった)。水着のパンツをやたら直すのには、固い小さいパンツ履いてるとああなるんだよねと思ってしまった笑。

映画に度々描かれる、マイノリティとマジョリティが反転した状況が全編通じてうまく使われている。高い声からゲイだと決めつけられる、おそらくゲイではない探偵ブリック(トリート・ウィリアムズ)がおそらく周囲に馴染むために最初から最後までタオル一枚巻いただけという無防備さが私にはまぶしかった。このさかさま世界へサカーマイン・ヴェスプッチ(ジェリー・スティラー…ベン・スティラーのお父さん)なるガエターノの義理の兄が弟を殺すために乗り込んできて、「ゲイは全員プールへ!」と銃でもって皆を追い込む場面がなかなかに怖い。一人のくるった奴によってどんな犠牲が出るか分からないからだ。結局は「おれはゲイじゃない」を最後の言葉に彼が逮捕されるのがオチなわけだけど。


▼『カブーン!』(2010年アメリカ)はグレッグ・アラキ全のせといった感じの一作で、多くの作品に通じる「大学で何らかの専門的な勉強をしている若者が友だち同士で栄養にならなそうなものを食べる」というのが奇妙なほど心に残る(反対に「ストレート」の男達は一人でハンバーガーを食べる)。

序盤に描かれる、主人公スミス(トーマス・デッカー)と「共犯者」のステラ(ヘイリー・ベネット)それぞれのセックスシーンにまず引き込まれる。ステラと特殊能力を持つローレライの方はもちろん、スミスとロンドン(ジュノ―・テンプル)は「男」と「女」なのに…そうそう、公開中のオドレイ・ディワンの『エマニュエル』の理想がこんなところに!と思ってしまった。完全にシステムの外にある(裏を返せばこれほどグレッグ・アラキ的世界でなければシステムから逃れられないとも言える)。初対面時にロンドンが「ゲイにそそられる」というようなことを言うのは、グレッグ・アラキだから書いてもいいセリフだとも言えるし、要するに女は男とはセックスしたくないのだとも言える。

シスヘテロ男の性器の舐め方というか啜り方に「麺じゃないんだから」(これにはさすがに笑ってしまった)とロンドンが「本音のアドバイス」をしようとするが「聞きたくない」。それでも優しく簡潔に教えてやるとちゃんとやれる。こんなふうにグレッグ・アラキの作品にはジェンダーやセックスに対する直球の真面目さがあって、それはドラマ『ナウ・アポカリプス』にもずっと続いている。加えて実際に何があったのか、これから何があるのか分からないという言いようのない不安と、でもそんなもの、別にいいんだと吹き飛ばしてしまう軽さがある。これらは今年見る他の映画にも繋がっていくという予感がする。

勇敢な市民


主人公ソ・シミン(小市民)役のシン・ヘソンがドラマ『生まれ変わってもよろしく』(2023)でアン・ボヒョンと共演していたこともあり、彼が苛め役だった『梨泰院クラス』(2020)が脳裏をよぎるも、あちらはその父親こそが主人公いや若者の敵だったのが、こちらでは普通なら一番の悪とされる権力者の父親が不在。成人済のハン・スガン(イ・ジュニョン)はどこにも帰さず、おれはお前らとレベルが違う、面白いから暴力を振るうと言ってのける本人そのものが悪。生徒間の暴力を題材とした作品も多く作られているけれど、母親のみ登場する本作では父親の不在が目立って感じられた。

正規教員の地位を目指して「猫をかぶっている」描写含め、序盤はシン・ヘソン最高!ソ・シ・ミン!ソ・シ・ミン!と見ていたんだけど、これはそういう映画ではなく、いわば「市民」が拡がっていくのが肝。顕著なのが当初は見て見ぬふりをするよう助言する先輩教師ジェギョン(チャ・チョンファ)の変化で、絶妙な距離を取りながらの「スガン(イ・ジュニョン)に初めて注意した…」の場面などぐっときた。似た感覚を最近覚えたなと思い返してみたら、『市民捜査官ドッキ(原題「市民ドッキ」)』でラ・ミラン演じるドッキに影響されてパク刑事(パク・ビョンウン)が市民のために働くようになるところだった(「若い頃は私も…」のジェギョンと異なり、「男性」である彼は下へ降りることをしてこなかったわけだけど)。

当初隠れていたシミンが立ち上がり諦めることをしなくなるのは、生徒から「生きたい」と助けを求められたから(彼女が訪ねたジニョンのハルモニも、直訳では孫を生かしてやってくださいと言っている)。レベルはあれど、教師の仕事の根っこがそこにある。先輩教師の変化に比べて生徒達のそれが見えづらいのも、大人にまず責任があるからということなんだろう。

ディックス!! ザ・ミュージカル


笑って楽しく見たけれど、ジョシュ・シャープとアーロン・ジャクソン及びその舞台を踏まえていないからなのか、私にとってA24の映画がいつもそうであるようにそつが無さすぎて少々物足りなく感じてしまった。二人が演じるクレイグとトレヴァーの母親エヴェリン(メーガン・ムラーリー)宅での一幕に何なんだこれはと思っているとママが「they」とファックしていることが明かされるなど無駄がない。私はギャグ映画なら父親ハリス(ネイサン・レイン)の「ハムの袋」(エンドクレジットでの「自伝のタイトルにしようかな」笑)がなぜそんなに強力にくっついているのか、みたいな要素が好きなので。ミーガン・ジー・スタリオンのラップも直球でかっこよすぎる(「それ」を望まないという意味ではない/これは私が女という部分のみはっきり当事者だからだろうか)。

ケストナーふたりのロッテ』を原作とする『罠にかかったパパとママ』のリメイクである)『ファミリー・ゲーム 双子の天使』(1998年アメリカ、ナンシー・マイヤーズ監督)を下敷きにしているというその下敷き具合は、くそでかメニューから顔をあげたハリスの「二人が我々をはめたんだな」といった説明ゼリフに表れているわけだけど、冒頭3分で結末を予想させ多分15分あたりで双子の協力まで話が進むというテンポのよさがいい。めちゃくちゃな話のめちゃくちゃさを活かしている。サマーキャンプに来た少女二人はフェンシングの勝負から対立するが、トップセールスマンのシスヘテロ男二人は顔を合わせたそばから争うのが面白い(alphaとはそういう生き物ということ)。「双子を引き離すなんて虐待かな?」(終盤ハリスの対応するセリフあり)からの、しかし子どもに望まれたからといって「結婚」は別問題だろうという疑問にも応えてくれる。

映画冒頭の「これはホモセクシュアルが脚本を書いた映画である、ホモセクシュアルが脚本を書くとは珍しい、そして彼らはヘテロセクシュアルの男を演じた、勇敢なことに」といった内容の文に、昨年リバイバル上映で見た『ドゥーム・ジェネレーション』(1995)の「グレッグ・アラキによるヘテロセクシュアル映画」を思い出し、制作のいきさつが違うのだから文脈も違うとはいえ被るところがあるなと思った。抵抗の相手が被れば手段も被る。要素の混在ぶりもちょっと似ておりタイムリーに感じた。