
冒頭の一幕、働けと呼ばれるも豚小屋になかなか行かない少女エリカは父親にぶたれる。彼女がこっそり何度も入るのは「役に立たない」もので満ちた部屋だ。片脚のフリッツが日がな寝ているベッド、彼が描いた自身の脚のスケッチ。女中のトゥルーディが拭き上げるとぴくぴくと動くのやエリカが布団をめくって見ようとすることから分かるように、切断された彼の脚は男性器そのものである。「役に立たない」ものが女を惹きつけるのだとも言える。少女レンカの母クリスタがだらんとした夫の性器をおでこに当てて安堵するのも通じるかもしれない、あの気持ちは分かる。
男が戦場に行くとは被害者にも加害者にもなるということで、それを止めるには男が「役に立たない」ようにするしかない。そして女が「役に立たない」ものに惹かれるのは、男は「役に立たない」まま生きる苦痛に落とされるが女は「役に立つ」まま生きるか、死ぬしかないからだ。さすれば「労災」ごっこをした幼いアルマは死んだと私は思ったけれど、どうだろう。不妊手術を施され使用人の男達の性欲処理を担うトゥルーディが「私もフリッツもむだに生きている」が「彼の人生をむだなものにしたくない」と彼に射精させるあの部屋は、あの時代において男と女が交差する唯一の場でもある。
ここで女にとって「役に立つ」とは労働力として搾取されるか性欲処理の道具として搾取されるかのどちらかである。登場時に叔父に脚に手を置かれる場面で加害されていることが明らかな少女アンゲリカが彼に町へ連れて行ってくれるよう頼むのは、こちらも相手を役立ててやろうという試みである。男に性的に「役に立つ」ことから逃れられずそれが自分の存在意義になってしまうというのは『シヴァ・ベイビー』(2020年・アメリカ、カナダ)の主人公の心持ちに通じていると思う、尤もそちらは成人しているが。
アンゲリカの「人は行動ではなくその時どこにいるかで決まる」とは当初意味がわからなかったが、皆でポラロイド写真を撮る時にいなくなるのにそういうことかと思う。男親同士の取引でベルタやトゥルーディのような「女中」にされることになり自死したリアの死体との家族写真への反逆にも私には見えた。ソ連軍による暴力から逃れるために女達が入水自殺した時「うなぎに噛まれて水から出てしまい生き残った」ことから適切に笑えなくなった母イルムの目の前で、川の向こう側(当時の西ドイツ)まで生きて渡り切ってから彼女は消える。かすかに笑った母は娘の逃亡につき嘆きはしなかったのではと思う。
幼いアルマが母親の自分へのまばたきの回数を「愛している」度合いと決め他の姉妹へのそれと比べるのに始まり、序盤の彼女やネリー、あるいは母をガンで亡くした少女カヤは母親の愛に自身の存在意義を置いている。ネリーが自分が沈んだらと想像する、カヤがぼんやり見ている、またアンゲリカが視線に気付かないふりをして浮かぶ川は女達にとって死への道である。
私自身の過去を振り返ると、自分という若い女を見ることで男が楽しみを得ていると分かった時に苦しみが始まったが、それは身体的な痛みに置き換えられるものではない、というのと、この監督インタビュー記事にある「唐突に現れる感情なのに自分の人生や経験を振り返っても説明できない。それは世代を超えて継承されてきたものではないか」というのが、立証されていようとぴんとこないので、この映画のユニークな要素について感想は持てない。しかし少女達がカメラのこちらを見据えるのは、見られていると気付きながらも知らないふりをせざるを得なかった女達とこれからの女達に監督が与えた僅かな救いだと思った。