私のすべて


モナ(ロール・カラミー)が常に心に留めているのはプールで他人に迷惑を掛けてしまう、パレードではぐれてしまう、障害を持った息子ジョエル(シャルル・ペッシア・ガレット)と、いつ死ぬか分からない母親である。ジョエルの方は、病院に来たんだからおばあちゃんに会わなきゃと言う彼女になぜもう死んだような話ぶりなのかと返し会わずに出て行く。彼は祖母が死んだ際には心のこもった弔辞を読み、食事のとき目に入るのはとモナが渋る骨壺をぼくは平気だからと目立つところに置く。いつも思っていなくてもいい、私としてはこれがこの映画の一番のメッセージに思われた。

ジョエルとオセアン(ジュリー・フロジェ、二人とも当事者が演じている)の子どもについて初めて話し合われるのは二人のいない、双方の親と作業所のスタッフだけの場だが、最終的にはオセアン本人と女性の婦人科医との間で出産することが決定される。前の場面でのスタッフの「私達の仕事は就労支援であってセックスの管理ではない」、後の場面での医師の「お母さんがあなたと話したいと言ってるけど嫌ならいい」、こうした姿勢が当事者の権利を守る方へと社会を動かしている。

ジョエルが恋人を妊娠させたと知ったモナが帰宅して自分を待っていた彼の顔を見るや口紅をひき男を外でひっかけ家でセックスするのは、「それ」からこそ「私達」は遠ざかっていなきゃと思っていたからだろう。相手のフランク(ヘールト・ヴァン・ランペルベルフ)に再会しての「さっきは全てを忘れられた」の「さっき」が性行為(挿入ではない)をして快感を得ている自らを鏡で見た時というのは、自分を外から見ることが意識に変化を及ぼすからだろう。彼女の体は彼が一見して分かる「ジョエルを生んだ体」であり、それが彼女を常に息子の母に留めていたのかなと考えた。この映画は行為中の女の体というか肉をあまり見たことがないふうに撮っており面白い。

冒頭老いた母のベッドの脇でのモナの「むかし百日咳に罹ったとき母がずっとついていてくれた」に看護師が「今は逆になりましたね」と返すが、これはそれが再び起こる話でもある。ジョエルとオセアンの新居のために選んだ食器か何かを落として割ってしまい癇癪を起こす母親を息子が受け止める場面から、映画は彼の目で母のいる世界を映す。これがとても効いていた。

祝日&週末の記録


KIRINJI TOUR 2026 at NHKホール、とてもよかった。「新しい曲をやります」からの『Runner's High』と『素敵な夜』のブリッジに全身がどうにかなって、『flush! flush! flush!』(日本スゴイとかいって内実ボロボロじゃんという歌詞の曲)で大盛り上がり、更にアンコール後は私をどうするつもりなのかと(ツアーグッズについての高樹のMCに掛けています)。『まぶしがりや』『愛のcoda』『冬来たりなば』の後に聞く、「今」の『歌とギター』も素晴らしかった。逐一の曲の説明は色んなお客さんのためだろうけど場繋ぎ的な感もあり、私としては円丈のまくらを思い出していた(そういうのを野暮だと思わないところがいいってこと)。

バレンタインに同居人がいつものオランジェットを作ってくれた(これが何枚も!)。加えて今年はぶどうとフルーツトマトのチョコ掛けも。
私が買ったのは昨年行ったフラッグシップのラ・コリーナ近江八幡が良かったクラブハリエのコメダ珈琲店とのコラボ商品「ハートブラウニー コメダブレンド」と、形に惚れたメリーチョコレートのタブフィル。ブラウニーはパズルの形で食べるのが楽しかった。

キラー・オブ・シープ


特集上映「チャールズ・バーネット エブリデイ・ブルース」にて観賞、1977年作品。

「殺しもいとわない奴」を仲間にしようとスタン(ヘンリー・G・サンダース)の元を訪れた男達を怒鳴りつけた妻(ケイシー・ムーア)は「死ぬのを怖がってちゃ生きていけねえ」と返されるが、思えば先に見た『マイ・ブラザーズ・ウェディング』(感想)はその部分を広げた映画のようだ。死を直視するかしないかの境界にいる男の話。馴染めない存在を描くことでそのコミュニティが浮かび上がるという点も同じ、映画とは往々にしてそういうものかもしれないが。

そんなことあるのかと思う、妻が鍋の蓋に映った顔をふと気にする場面からの身支度にどこへ出かけるのかと見ていたらそれは部屋着で、「あなたは最近笑っていない、心の奥では幸せじゃないのね」とベッドに誘うための準備であった。しかし幾ら誘っても、夫は仲間に「女房にこきつかわれてるな」と言われる、別にこき使っているわけではないが雨が降るならやらねばならない屋根の修理のような類の家の仕事に黙って取り掛かるばかり。

これは冒頭「どっちが悪いとか仕掛けたとか関係ない、男なら棒でもレンガでも拾って弟を守るべきだろ」と息子を怒鳴る父親とその後に黙ってビンタする母親との間の亀裂がどういう世界で生じたかを描く映画と言える。夫は熱いカップにセックスを思い出すとうっとりし、妻の方は祖母に向けて愛が消えたとひとりごちる。そのどうしようもない亀裂が、部屋着とはやはり違ったイケてる服で出かけるも間抜けな理由で引き返した後の娘の一言で少し修復するというユーモアには、涙と笑いが絶妙に混じっておりぐっときた。

クライム101


マイク(クリス・ヘムズワース)とマネー(ニック・ノルティ)、ルー(マーク・ラファロ)とアンジージェニファー・ジェイソン・リー)という昔からの関係が終焉を迎える場面の味気なさ(相手がいずれも声ですぐ分かる、私の世代にはとりわけ馴染み深い役者だというのが面白い。いわば特別出演であの二人でなければもたない)に対し、別々に生きてきたマイクやルーやシャロンハル・ベリー)やオーモン(バリー・コーガン)が初めて顔を合わせる場面の数々の熱さはどうだ…と思っていたら、これは先の関係を始め長年いいように使われてきた奴らの巡り合いの話なのだった。

思いがけない衝突事故の際のマイクの「おれも子どもはいない」とは少々奇妙に聞こえるが、後日のデートでの、やはり「クソ上司」の元で働くマヤ(モニカ・バルバロ)の「共通点がないみたい、時間を無駄にしたくない」然り皆が自分と同じ誰かを探している。しかしマネーに従ってか女を買うマイクが「普通のことがしたい」と言う辺りから帯びる人情味が常に漂うマヤとマイクより、「男女」の仲ではないシャロンとマイクの関係の方がロマンティックに映る。彼女の立場で見ると、これはいいタイミングでマイク、次いでルーに出会うというロマンティックな話である。ロマンティックとは自分に合う相手との巡り合いのことだから。

金持ちのモンロー(テイト・ドノヴァン)からシャロンへの「ブラックアートの価値の上昇は留まるところを知らないからな」に始まり、被害届を出した宝石商からルーと同僚への、これは妥当だと思われる「おれたちが移民だからか」「被害者叩きか」、このロサンゼルスは張り巡らされた人間関係のあちこちで誰かが誰かを押し込んでいる街に見える。男達が海辺の部屋にこだわるのはそれから逃れたいからだろうか?

未亡人


1950年代韓国映画傑作選にて観賞。1955年製作、「韓国映画初の女性監督パク・ナムオクのデビュー作であり唯一の作品」。丁度去年の今ごろ舞台挨拶付の上映回で見た『ミマン』(2023年韓国)には本作の上映会の場面があり、タイトルもここから来ているとのこと(「辞書にあった『夫を失ったにも関わらず夫の後を追って死なずに生きている女性』との意味は(略)少し暴力的な解釈とも言えるのではないかと私自身思いまして、この『未亡人』という言葉に非常に興味を持ちました」脚本監督のキム・テヤンのインタビューより)。

「このような未亡人がいた」「どんなに辛くとも彼女はひまわりだった」との冒頭の文にどんな辛抱劇場が始まるのかと身構えていたら私がその文言から思い描く像とは違っており、これをひまわりとするのかと感じ入った。朝鮮戦争に翻弄されながらもそれなりにやりたいように生きる女性、あるいは人々の話であった。当時の「未亡人」たちはこの映画を見ることができたのだろうか。

お金がないからとしぶる娘をなだめて登校させる主人公シン(イ・ミンジャ)の「小学校へ通うのにこんなにお金がかかるとは」。戦争で死んだ夫の友人である社長に生計を頼っている彼女が小さな鏡(ポンズコールドクリームの存在感!)を見るのは時にお金(へのお礼)のため、時に新しい夫を迎えるため、そしてもしかしたら自分を確認するため。

金勘定や化粧に余念のない(後に海で会う男性に「ミス・リー」と呼ばれている)隣人女性スクとのつきあいがいい。社長の妻が乗り込んできた時にはシンがその男とどんな仲だか確認せずとも味方をしてくれる。服や日傘にも見て取れるように違いが多々あれどオンニと呼んで軽妙に助けてくれる。「お金ならいくらでも貸すよ」「ただじゃだめでしょ」「見返りなしってわけにはいかないわね」、「男はおかず、夫はごはん」「上手いこと言うね」なんてやりとりが楽しい。10分間音声が欠落しているため二人の最後の会話が分からなかったのが残念。

しかし何といってもよいのは、今の韓国映画やドラマでも見ないほど…あるいは逆に年を経てそういうふうに変化してきたのだろうか…母が子のために自らを犠牲にしない、それを当然のごとく描いているところ。溺れている娘を一目散に飛び込んで助けてくれた青年テクに惹かれたシンはきっと来てねと呼び出し交際を始めるが、彼に懐かない娘に困り最終的には隣人の「やもめ」ソンに預ける。彼が元より男が来ている時には預かろうかという気の遣い方をしてくれるのや、そもそも娘が全く懐かないのがよい(およそ都合よく懐いてしまうものだから)。社長の支援で開いた洋装店の儲けから結構な額をかつての隣人に手渡す展開には、お金とはあるところから降りてくるものだと思わざるを得なかった。

マイ・ブラザーズ・ウェディング


特集上映「チャールズ・バーネット エブリデイ・ブルース」にて1983年作品のディレクターズ・カット、4Kデジタル修復版を観賞。

主人公ピアース(エヴァレット・サイラス)が手伝う両親のクリーニング屋は子どもが裸足で受け取りに来るような地元密着の店で、車を壊されたという彼の移動は歩くか走るか、急ぐ時はちょっとバスに乗れば事足りる。弁護士になった兄の婚約者である裕福な家のソニア(ゲイ・シャノン・バーネット)について「この辺の子と結婚すればいい」と言う彼を、兄の方は「世界が狭い」と言う。

親の世代は「子どもの頃は皆で綿花を摘んでいた」。分かれて生きる今の人々の家には一丁、二丁、三丁…どこにも銃がある(犬もおそらく防犯のために飼われている)。ピアースの母(ジェシー・ホルムス)が物盗りと察してカウンターのこちらで銃に手をかけると男達は引き下がる。その後に彼らの場面があるのが面白い。けしかけていた若い女が車内での銃には赤ちゃんがいるんだから!と大声を出すのには、銃口がいつ自分に向けられるか分からないことが描かれている。

映画はピアースが近所の女達に「男」としてあれこれ請われるのを振り切って親友ソルジャー(ロナルド・E・ベル)の出所を待つ母親を安心させに行くのに始まる。この辺りの仲間は彼ら二人しか残っていない。ソファに座ったきりの祖父母の面倒を見、ソニアの家の食卓での裁判の話に「(被害者の)死んだ女の子はどうなったんだ」と口を挟む(その帰り、母に玄関の階段から突き落とされる!)ピアースは、常に死に近い者を選んでそばにいる。そうあってほしいと思う反面、この社会では未来がないことも分かる。

これは人が死んでいく世界で常に死んでいく者と在るピアースが、真逆の世界との境界で抵抗する話である。映画の終わりに兄の結婚式の介添人である彼がいじくる結婚指輪は移動の約束のしるしだ。しかし彼は向こうへは行けないだろう、理想の結婚相手を問われた際の「料理ができて定職があり稼ぎを全て家に入れてくれる人」なんて投げたような答えにも表れている(そもそも彼は既婚者の女性とその場のときめきのために会っているんである)。

例えばトニー・ガトリフの映画を見ていると、ロマの人々が「男」と「女」にあまりにはっきり分かれているのをどういう気持ちで受け入れればいいのか分からなくなるが、この映画にもそれに通じるところがある。ソルジャーが女性を酷く扱ったあげく(「毎日彼女が違う」ことではなく、嫌がる場所で性行為をすることなど)死んでしまうのは、なに死んでんだよと思ってしまう。死に近い世界ほど女は余計に辛いように見える。

トゥギャザー

森に移住する前の都会での引越しパーティにて、女のミリー(アリソン・ブリー)は女の友人と、男のティム(デイブ・フランコ)は男の友人…といってもミリーの弟だが(彼女いわく「ミュージシャンと知らずに出会った」のだから。こういう些細な設定に力関係が表れている)…とやりとりしている。ミリーの公開プロポーズに当惑し応えられずベッドで謝るティム。双方の視点で描かれてはいるが、男である彼の方が主役のように感じられる。穴に落ちてまずデモ音源の入ったスマホを心配してしまうのや(まさに『厩火事』)、ミリーの同僚(デイモン・ヘリマン)との席で自身を「囚われのシェフ」と言ってしまう展開が生々しい。「頭と体がばらばら」の状態を信じてもらえないなど、従来なら女にあてがわれていたキャラクターを負っているのが面白い。

(以下「ネタバレ」しています)

いわゆるボディホラーでも『サブスタンス』や『アグリーシスター』などの「因」は女性が受ける抑圧だが(これらの方が後発なわけだが)、この映画はきちがい宗教なので誰彼構わず、それこそ人間じゃなくても襲い掛かる不運なので見やすい。そこに「別れられないカップル」の問題が加わってくるのが面白い。モリーの「一人だった時の自分を覚えていない」とは、「カップル」状態にあるならば胸に手を当てて考えてみるべき問題である。私は覚えている…と思うけれど自信がない。対してティムが自分で自分を殺す覚悟を決めて言うには「会う前の自分を覚えている」。お互い「個」に戻ろうというわけだ。しかし二人の「個」は回復しなかったのでああいう結果になったのだと私は解釈した。あるいは「個」は新たに生まれ得るものなんだろうか、そういう話を誰かに聞いてみたいと思った。