連休の記録


新宿高野で一週間のみ扱っていたゼスプリレッドのデザート「マルシエール~ゼスプリレッド~」。盛り沢山のゼスプリレッドは勿論、下のジュレもムースも美味しくて満足。


スーパーで買ったスポンジケーキをチョコレートのホイップクリームと板チョコと桃缶と苺で飾った、昭和っぽいケーキ。食べ応えあって楽しかった。

海辺の彼女たち


ベトナムからの技能実習生三人が真っ暗な中を逃げ出す冒頭より地下鉄、フェリー、電車、バスと乗り物が数多出てくるが、その場その場で必要に迫られて乗るだけのそれらはどこにも繋がっておらず、日本語のみのアナウンスが恐ろしく響く。海辺に辿り着いた彼女たちの背後には道があり車が走り民家が並ぶものの、体調の悪いフオン(ホアン・フオン)と彼女を気遣い抱え歩くアンとニューの三人に誰も気付かない。その、「気付かない」のが私たちだと告発する映画である。

ベトナム人男性のブローカーの言う「小さな町だから」「普通に働いていれば大丈夫」「元の生活に戻れるよ」とは、それぞれに渡される一枚のキャッシュカードが象徴しているように、駒として労働だけしている分には大丈夫、社会と繋がる必要がない分には大丈夫という意味である。この映画は地べたの視点で撮られており何が彼女たちを支配しているのかを直接は見せないが、例えば彼がフオンを車に乗せてある物を受け取りに行く場面など、巨大な搾取のシステムが出来上がっていることが見て取れる。

「ふたつの日本」(2019/そもそもこの本のタイトル、レイヤーの違いがこの映画全編を通じて描かれていると言ってもいい)でもちらと触れられていたし私もそう思っているけれど、日本で暮らす外国人の多くが「病院に行くこと」を恐怖に感じている。三人が出向くその内には優しい気持ちと強い意思がある(現場では、見ていて不思議に感じるほどコミュニケーションが取れていたけれど)。しかし弱者ほど分断の危機に晒されるのが世の常で、社会と繋がりを絶たれた状態では共同体が分裂する。アンとニューの作中最後のセリフ!(字幕からして恐らく原語も乱暴なニュアンスなんだろう)。

上映後の舞台挨拶で監督自身も「ああいった『女性たち』」と言っていたけれど、この映画の「彼女たち」はベトナムの男から日本の男まで実に男達に縛られ締め上げられている。ブローカーの男性の連絡用の、こちら側の耳に付けたままのイヤホンや、とある男性が車のエンジンをかけるや流れる音楽が、彼女らの話を聞く耳など持っていないことを表している。本作には多くの女性も関わっているに違いないけれど、挨拶に登壇したのがたまたま男性ばかりだったこともあり、気を遣ってそのような…女性が搾取されることに焦点を当てた作りにしたように私には感じられた。

街の上で


一人暮らしにしては冷蔵庫、でかくね?からの主人公・荒川青(若葉竜也)の「おれは別れないからな」。この映画で男の口から二度出るこの言葉は私にとって暴力に繋がり得るものなので、心が少し縮んでしまった。青の働く古着屋で女性が口にする「まだ好きなんだからね」からの「うまく行くといいね」が、恋愛の俗に言う無理筋を同様に表しているとしても、物語上の都合なわけだけども男女で随分違っているじゃないか。

紡がれるスケッチの全てが他人の(青いわくの)「センシティブ」な領域に踏み込むことで展開するのも異様に思われて、このことにも怖くなってしまった。この映画がその種類と面白さを描いているのは分かる。例えば警官のくだりは一方的な開陳が誰かの背中を後押しすることもあるという話だし、予告で見た青とイハの場面では、「センシティブ」な会話が作中最も円滑に(互いにしたいことをしているという意味で)繰り広げられる。会話の「センシティブ」さと同衾の可能性の相乗効果でスリルに満ちている。

青と雪(穂志もえか)の顛末だけ見ればロマコメの王道ながら、そうなんだよね、一緒にいると楽しいのと恋とは別だよね、でもいつも思うことなんだけど何故人は恋人と友達とを分けるのか、そういえば「愛は曖昧なものだけど、嫉妬とか、そういうのは『証』になる」と言ってたな、などと思いつつ見ていたのが、ラストシーンの二人の笑顔でどうでもいいかと良い意味で丸め込まれて楽しく劇場を後にした。

それにしても同じような人ばかり出てくるなと感じたのは、女性の年齢や容姿が(男性に比べて圧倒的に)ある範囲内に収まっているからだろう(いや、「主人公の男が女に囲まれる映画」だと分かっているけども)。あるいは「街の上」には男性より女性の方が少ないのかな、などと考えた。先月読んだ「女ふたり、暮らしています。」の序盤にジェントリフィケーションで街を離れざるを得なかったというくだりがあったものだから、白鳥座を訪れたあの店員さんとお客さんが共に暮らす未来をふと想像してしまった。

スプリー


ストレンジャー・シングス」のスティーブことジョー・キーリー主演、父親役にデヴィッド・アークエット。「誰も見ていないところで木が倒れたなら、倒れたと言えるのか?」をこういう映画で聞くとはと思ったけれど、言い得て妙か。

こういう題材だとスプリットスクリーンも「自然」だなと思いながら見ていたんだけども(登場人物に寄りそうならデ・パルマとは真逆、カメラは自分にばかり向いてるんだから)、それを活かしての、といっても映画ファンにはお馴染みの古典的な手を使ってくるところで少し白けてしまった。案外面白かったのは、画面横かよ、皆クビどうしてんだ?のしばらく後に、映画を見ている私達がそれ、というかその逆(縦画面を横にして見ること)をするはめになるところ。

いまだ通用する、ナンシー関の名言「『安室ちゃんが笑顔で手を振る』と『MAXが歌い踊る(だったか、詳しくは忘れた)』は同価値」。ジェシー(実際のスタンダップコメディアン、サシーア・ザメイタ)のように人気や才能があれば、おばあちゃんと一緒というだけで皆が見るしSNSを捨てるところも注目される。「SNSの外」を持っている人の方が強い。

乗客からインセルなどと因縁をつけられるカート(キーリー)がフォロワーを増やしたい一念以外では「差別はよくないよ」などと良識があるのは「ザ・スイッチ」の殺人鬼にも通じるものがあり、おれの家で公開セックスしよう!おれたちがカップルになればフォロワーも倍!などと言い募るのを含めて、映画で見ているだけならむしろすがすがしい。

カートが韓国女子DJにタグ付けしてもらおうと「전설의 남자(伝説の男)」と書いてある服を着て出かけるのには、ここ数年で韓国文化が本当にアメリカ映画に根付いて来たなと実感させられた(ちなみに日本文化も出てくる、侮蔑的な台詞で…「あの男が好きなのは『ヘンタイ』抱き枕」)。そもそも韓国でリメイクしたら面白そうだなとも思いながら見た。


(ちなみに直近で見た韓国文化の登場するアメリカ映画は、Netflixで先月配信された「YESデー ダメって言っちゃダメな日」。ジェニファー・ガーナーエドガー・ラミレスが設けた「YESデー」に息子が一番目のお願いを韓国語で提示してくる。出掛けた韓国系アイスクリーム店で登場するのは「HEROES」のアンドウ役が懐かしい、つまりかつては「日本人」だった韓国系のジェームズ・キーソン)

約束の宇宙


アリス・ウィノクールの映画は「裸足の季節」(脚本)、「ラスト・ボディガード」、本作いずれも女が家から出る話である(「ロシアはすごく遠いけど地球にある」じゃないけど、本作での家とは地球のこと/「博士と私の危険な関係」は未見)。異なる主題を扱いながら全てにその要素が絡んでいるところから、「女が家から出るのには支障がある」ことがはっきり分かるとも言える。

主人公サラ(エヴァ・グリーン)が訓練しているVRの画に娘ステラとの算数がどうのこうのというやりとりが重なる場面など、文にすると、いや、実際に見たところで大したことないのかもしれないけれど、見ている時には大変に素晴らしかった。「ラスト・ボディガード」の監視カメラの映像しかり、主人公の見るもの聞くものが映画と一体になっているのが面白い。

心拍数が上がっちゃだめ、怪我を治さなきゃだめ、そんなこと制御できるんだと凡人は驚かされてしまう。才能と熱意がある女性が男ばかりの中で体験する辛苦を丹念に描いているという点では、本作は「野球少女」にも似ている。どちらも実際はあんなもんじゃないに違いないけれど。それでも訓練所に着いた直後の「特に何があるわけでもない」がひりひりしてるあの感じ、嫌だけどよく分かる、しっかり伝わってくる。

サラの元夫(ラース・アイディンガー)の「相談じゃなく決定してるんだろ、おれが面倒見るってことに」。口に出せない女がどれだけいることかと思うけど、このセリフが無かったらそんな問題があると提起できない。彼と娘が訓練中の彼女に会いに来るのに一度目は「飛行機に乗り遅れそうになって焦った」上、隔離前のパーティーの際には実際に乗り遅れてしまうのは、物事というのは家族のうち一人は「ひま」な人がいるという前提で決められているのだという訴えに思われた。

宇宙飛行士マイク(マット・ディロン)が妻と息子二人とセルフィーしている姿が挿入されるのが強烈で、あれこそ社会が想定している「家庭」であり、そうじゃない家庭はどこかで耐えなきゃならない。加えて前者の中でも耐えてる人はいるわけだから(マイクの妻の「うちは子守は私」にうっすら感じられる)、そんな想定、誰のためにもならない。

子どものいる男性宇宙飛行士の話はあっても女性飛行士の話は無いからというので作られたんだろうけれど、実際を反映させれば当然ながら女ゆえの苦労が描かれることになり、それは現在の世の中では、これではいけないからこうしよう、ああしようというんじゃなく母は大変だ、でもって偉大だ、という物語として受け止められてしまっているように思う、宣伝などを見るに。「パパとママとは違う」とはどういう意味合いのセリフだったのか?

戦場のメリークリスマス


4K修復版の2K上映を観賞。画面、なんてきれいなんだ!という感動は慣れにより数分で消える、ボウイの登場時には蘇ったけれど。見たのは何年ぶりだろう、思ったことをちょこっと書いておく。

▽ロレンスがヨノイに対しセリアズについて「彼は掃射兵で…そうだな、翻訳しづらい、『兵士の中の兵士』だ」と説明する英語のセリフから、英語を話さない者には英国兵の何たるかは理解できないということが分かる。ヨノイ「お前たちは48時間、行をするのだ」→ヒックスリー、ロレンスに「ギョウって何だ?」→ロレンス「どう言ったらいいか、空っぽの腹が精神を鍛えるのだ」→ヒックスリー「ばかみたいだな」なんてやりとり然り。ハラが「物が分かるのはロレンスだけだ」としきりに言うのも、彼が東京にいたからではなく日本語を解するからである。

▽冒頭の一幕、朝鮮人のカネモトに暴行されたオランダ人のデ・ヨンについてハラが「襲われたのに抵抗しなかった奴がなぜ死なないんだ」と言い放つが、日本男子というのはどのルートをとっても死にしか辿り着かないプレイヤーである。そんな者達が敵と居ながら「戦わず」集っている日本軍俘虜収容所というのはとても奇妙な場所に思われる。戦後に処刑の決まったハラの「私には分からない、私がしたことは他の全ての兵士がしたことと同じだ」との疑問、おそらく生きてきての唯一の「疑問」だろう、その土台がこの奇妙さである。

▽その奇妙さから映画がひととき逃れるのがセリアズの回想シーン。ここで描かれる集団の悪意や個人の苦悩にねじれはない。弟が「歓迎」されているのを壁を隔てて彼が体験しているあの有名な画面は大変に大島渚ぽいなと初めて気付いた。ところで私は作中の日本人の言動については「突っ込み」を入れたり何だりしながら見ていたものだけど、英国人のそれとなると、この回想シーンにおける残虐な場面も、デ・ヨンやセリアズのために皆が歌を歌う場面も、本当のところはここで行われているのが何なのか分からないという気持ちに襲われた。

▽1942年、寝床からハラを見上げたセリアズの「funny faceだがbeautiful eyesだな」とは日本男子の概念の具現化であるところのハラの目だけは何にも侵されていないという意味であり、その目(に象徴されるもの)が国家を超えてハラを支配するのは作中二回の「メリークリスマス」の時。一度目は酒に酔っている時、二度目は「これからも酔い続けます」と宣言する時。日本男子は酒に酔った時だけ個人になれるが、それは「死」なのだと言っている。1946年、ロレンスに会う前の晩、彼はセリアズのどんな夢を見たのだろうか。

平日&週末の記録


人気商品。
カルディの冷凍マリトッツォは確かに便利で美味。オレンジピールが効いていた。
崎陽軒の売り場を通りすがりには、「おにぎりシウマイ弁当」の最後の一個を購入。最初に食べてみたおにぎりが焼焼売入り、他の具も美味しかった。


カフェチェーンのパンケーキ。
タリーズで「今日からです!」と言われて注文したピュアメープルとバターのパンケーキは、レンチンですぐ出てきたけれど、安心の味。
久々のイリーカフェではスフレパンケーキ メープル&ホイップ。これも食べ易かった。