僕たちのラストステージ


作中のローレル&ハーディがショーを締めくくる「楽しんでいただけましたか、僕たちは楽しかったです」とはとても良いセリフだが(授業の終わりにも言いたくなるような…と考えると、あれは実に、頑張って準備した時でないと出てこない言葉だ)、これは二人が「ラストステージ」においてその気持ちを真に確認するまでの物語である。スティーヴ・クーガンジョン・C・ライリーの互いへの愛を控えめに表す演技が素晴らしい。

スタン(スティーヴ・クーガン)が楽屋で靴底を削る音に始まった映画は、彼とオリー(ジョン・C・ライリー)の正反対コンビの長回しの出勤風景を経て、プロデューサーのハル(ダニー・ヒューストン)いわく「お笑い西部劇」の撮影現場がカメラに吸い込まれ満席の劇場のスクリーンに変わる。今の私の目で見ると彼らのダンスに皆が「爆笑」しているのがぴんとこないが、「二人」であることが最大の強み、良さなのだと伝わってくる。ハーディのあの決め顔だってローレルあってなのだと。

スタンいわく「映画の中の僕らは有名人じゃない、そういう設定だ、頼れるのは互いだけ、それがいい」。幾度も挿入される観客の笑顔に、こんなにも人々を笑わせている二人が(ここでは当初の空席や新しい映画が撮れないなどの)辛酸を嘗めているのが奇妙に思われるが、見ているうち、あの笑顔こそステージの向こうとこちらに厳然たる違いがあるということを伝えているのだと分かってくる。だから「ローレル&『クック』」を笑顔で待ち望む人々の期待に応えなくたっていいのだ。

マネージャーのデルフォントがご丁寧にも「奥方たちのショーも最高でしょう」と口添えするが、確かにそれぞれの妻、ルシル(シャーリー・ヘンダーソン)とイーダ(ニナ・アリアンダ)も四人揃ってのディナーの場面からして「コンビ」として撮られている(見せる意思のないものであるが)。「妻同士」なんて所詮男の付き合いに左右される存在だよねと思ってしまうのが、オリーの「おれたちはハルが決めたコンビだ」というセリフによって、彼らも彼女らも「たまたま」の組み合わせであることに変わりないと考えられるところが面白かった(そういう意図のセリフではないが)。

新作落語の会


開口一番(三遊亭ぐんま「ランプのぐんま人」)
春風亭ぴっかり「ナースコール」
柳家喬太郎「路地裏の伝説」
 (中入)
林家彦いち「青畳の女」
三遊亭白鳥隅田川母娘」
 (4/19・かめありリリオホール)

帰り道、「隅田川母娘」に合わせてホッピーと煮込み。

週末の記録


果実園リーベル新宿店にて、同居人は「フルーツパフェ」に私は「今日のパフェ」。四角いお皿に盛り付けられた後者はフルーツの下に生クリームとシャーベットとゼリー、辿り着くまでにもうお腹いっぱい(笑)


区議会議員選挙の投票から帰ってチゲを作ってもらう。韓国で買ってきた容器に辛ラーメンを入れて、春菊やらネギやら人参やら薄揚げやら豆腐やら並べて火に掛けて、仕上げに宮城ふるさとプラザで買った柚子胡椒味の牛たんを焼いたのをのせる。超豪華で美味。
牛たんと言えば同じお店で買ってもらったずんだあんをパンに乗せて食べてもみた。これはバゲットよりも昔ながらの柔らかいパンの方が合いそう。

荒野にて


引っ越しの荷物からまず小さなトロフィーを窓辺に並べるオープニングのチャーリー(チャーリー・プラマー)の姿に、彼がここを家と認識していること、あるいはしようとしていること、ささやかなよい思い出があることが分かる。続く一幕からは、彼が父親レイ(トラヴィス・フィメル)に気を使っていること、好いていることが伝わってくる。なんとなれば、奥の部屋に女がいるからと外へ出るが朝食で顔を合わせるために一旦帰ってくるのだ。学校へは行っていないのに。

父親をぶちのめしている男に金槌を振り下ろせなかったチャーリーは後に病室で「助けてあげられなくてごめん」と謝る。彼は作中最後の夜まで「父親が溺れているのに助けられない悪夢」を見る。それにしても何と…何も頼れない環境であることか。「入院したら金がかかる」と彼を働かせに荒れた家へ寝に帰す父親、「おれと食事するならマナーが大事だ、でも教えてやる余裕がない」と先に帰る雇い主デル(スティーヴ・ブシェミ)、中でも印象的なのが何度も叫んでやっと聞いてくれる、国旗の元のぼんやりした隣人。「彼女」だって父親や雇い主のように、近付いてみれば悪人じゃなさそうなのだろうか。

荒野の一軒家の客となったチャーリーは「これは僕らの家じゃない」と競争馬のピートを連れて立ち去る。彼の「なぜ逃げないの」に対する少女の「逃げる先が無ければ逃げられない」とは、安定から安定までの間の不安定に耐えられないという意味である。これは保護者を失ったチャーリーが次の保護者の元へ向かう旅の物語で、彼は中途の不安定を自分の側が保護者となる事で埋めようとする。彼はピートに「大丈夫、心配しないで」と繰り返すがうまくいかない、全然「大丈夫」じゃない。彼の方は自分がそう言われれば走って逃げる。

「最高の女は皆ウェイトレスになる」とは父親の教えだが、チャーリーは作中二度ウェイトレスに助けられる。ウェイトレスとは食事を運んできて自分は食べない女だが、それを言うなら出てくる女は皆そうだ。「本社の秘書」に始まり「象の耳」を買ってくれる騎手ボニー(クロエ・セヴィニー)、祖父に虐げられている少女、最後の叔母に至るまで。私にはこれは、保護してくれるべき女性の不在というチャーリーの穴を彼女達が埋めているという描写に思われた。しかしそうした優しさをいくら食べたとてその場しのぎだから痩せていってしまう。生き延びることはできても。死なないためには他人のそうした優しさが必要なわけだけども。

心に残るのは冒頭の食卓で父親に手渡されるのを始めとする、チャーリーが紙幣を手にする幾度もの場面。あれらは通り過ぎていくだけで安定には繋がらない。彼ががつがつ摂る食事もそれに似て、一時のものだから彼の中に溜まらない。対して「逃げられない」少女が肥えているのは、変な言い方だけれども、歪んだ安定を溜め込んでいるからに思われた。

この映画で面白いのはチャーリーが叔母に会って以降である。何も言わずとも一目で気付いた彼女が歩み寄り二人はひしと抱き合うが、それでもどこか、一緒くたにはなれない空気。その晩彼は彼女の胸に泣きつくが、それでもどこか、密接していない距離。彼だけがパンケーキをつつく食卓の、誰しも事情があるといった感じ。「自分は食べない」ということは叔母もやはり「他人」で、彼はまぼろしの保護者を追い求めていたのだろうかと思わせる。安定を得ても世界に馴染めない人はいる。このような、現実には在るが映画にはあまり描かれないことを語る作品が私は好きだ。

12か月の未来図


全ての(愚かでも未熟でも…とは保身のためにそう書いておくんだけれども・笑)心ある教員の姿がここにある、とも言えるが、これは誰かが未知のものに触れることによって社会はより良くなるという話である。人を人とも思っていなかった主人公が他の世界を知ることで、彼が心の底に持っていた人間愛がきちんと機能し始める。

映画は名門アンリ4世高校の国語教師フランソワ・フーコー(ドゥニ・ポダリデス)が教室で(窓辺で、生徒達じゃなく外に向かって)ラテン語の詩を読みフランス語に翻訳するよう指示する姿に始まる。その後の作文返却の様子には、ブルジョアの、あるいは教育者の陥りがちな傲慢な態度が大げさに表されているようだ。中盤彼が学習性無力感を知らないと答えるのも(そんなはずはないので)「言葉を知っているだけでは知らないのと同じ」と言っているのだろう。

授業初日に移民の生徒達の名前が読めず自宅で写真と突き合わせて覚えるのは「あるある」だが(私も留学生の名前がなかなか覚えられない、あんな写真が揃っているんだから羨ましい・笑)、名前に続けて「席を移動しなさい」なんてセリフの練習をするのには笑いつつ偉いなあと思った。教師とは役者でもあるとはよく言うけれど。ちなみに冒頭フランソワの母親が東京を北京と間違えるのは、人は基本的に外の国に関心がないということの表れに思われた。

初日は「静かに」「静かに」と相手を踏み付け自分の指示だけで通していたフランソワが、試行錯誤しながら対話を行うようになる。宿題を出すと「むり」と言われて「なぜ」と返したり、「問題児」セドゥの「トイレに行きたい、母の名にかけて」を文法的に取り上げて親しみを抱かせるつもりが彼の尊厳を傷つけて大失敗したり、そんな繰り返しで毎日が過ぎていく。邦題通り彼と生徒達の12か月を描いているこの映画には、学校が休みの間の描写が一切無い。

「私には野望がある、君達に本を一冊読んでもらう」。「レ・ミゼラブル」に興味が湧かない生徒達のために、フランソワは教卓から本を払い落とすパフォーマンスをしてみたり「ゴシップ」として提示してみたりといわゆるスキーマの活性化をする。しかし私としては一人一人に本を放って渡しながらの「大切なのは中身だ」がよかった、私も自分の本の扱いはひどいもんだから(笑)

そんなものがあると知らなかった、「多い時には日に三度も開かれる」というフランスの指導評議会。これを扱っている映画を見たのは初めてかな、監督の力が入っている。このくだりではフランソワの、(学校にこそ蔓延してしまう!)先例主義、事なかれ主義とのちょっとした闘いが描かれる。現実は映画のようにうまくいかないけれど、彼が「新入生」を迎えての「とてもよかった」には涙、涙、涙(×100)でしょう。

フランソワが要職の美女ら(教育大臣含む)に鼻の下を伸ばして仕事を引き受けてしまうなんて冒頭よりの描写含め喜劇ふうだが、セドゥが好きな女子生徒の気を引くのに叩いたり足を引っかけたりすることに対する彼の指導の描写はもっと厳しくしてほしかった、大きな問題だから。

平日の記録


コーヒーショップで苺の飲み物。
東急本店のミカドコーヒーのイチゴフロートは喫茶店の味。上にのってるのがモカソフトだったらなあと思う。
池袋東武のハンデルスカフェのあまおうミルクシェイクは売りのアイスクリームで作るだけあって美味しくて、すぐ飲み終えてしまった。

希望の灯り


映画の始め、スーパーマーケットで働く者達のリーダーであるルディは新人クリスティアン(フランツ・ロゴフスキ)を「気楽な仕事だ」と迎え「神聖な職場だ」と共に店へ出る。どういうことだろうと思いながら見ていると、年長者達は禁煙の店内でタバコを吸い食べてはいけない廃棄物を「おやつ」にしている。一致団結して作り上げた気楽な空気に彼を呼び込んでいるようにも見える。では神聖とは何か。映画の終わり、クリスティアンはルディに「君は一人前だ、それが上からの伝言だ/上で書類を作れ」と言い渡される。作中一切映らない「上」が神聖の出処かもしれないと考えた。
中盤、クリスティアンを指導するブルーノの「かつてここは運送人民公社だった、俺やルディはそこで働いていた、再統合で買収されここで働くようになった、昔はよかった」というセリフからこの地が旧東ドイツだと分かる。「気楽」とは勝者の元で何とか勝ち取っているもの、「神聖」とは形は失われても守られているものに思われた。

話が進むにつれ、体中のタトゥーを隠すように毎朝上っ張りをぴしっと伸ばすクリスティアンがスーパーマーケットを自分の新たな世界と決め、そこで生まれ変わろうとしていることが分かってくる。かつての仲間の顔を見ての第一声は「なぜ入(はい)れた?」。彼らは自分達を拒否した彼の世界を汚して去る。
「(家に)寝に帰る」とは普通あまりいい意味合いを持たないが、働き始めのクリスティアンが帰路に着く同僚達の姿に思う「僕らは明日再び家に集まるために眠りにつくようだった」にはネガティブな匂いがない。スーパーマーケットを「家」、実際の家を単なる寝床にしている彼に悲惨さはない。第一に自らの意思で選んだことだから、第二に「家族」が温かいから。

冒頭はスーパーマーケットがクリスティアンの全世界である。ここには「海」も「シベリア」もある。マリオン(サンドラ・フラー)とコーヒーを飲む自販機は街角のカフェといったところか。この映画は冒頭を除き「クリスティアン」「マリオン」「ブルーノ」の三章に分かれているが、その意味するところは「クリスティアンクリスティアンの世界を生きる」「クリスティアンがマリオンの世界を訪ねる」「クリスティアンがブルーノの世界に招かれる」である。「新人」は自分で獲得した世界を徐々に広げていく。マリオンの家を訪ねた後には眼前の金網が消え、ブルーノの家に招かれた後には店内の客、同じ空間に存在しながらこれまでは平行世界に居るようなものだった他者に挨拶をする。
ブルーノは失われたもの、いわば世界に空いた穴から逃れることが出来なかったが、彼の気概を受け継いだクリスティアンは世界を作る中途にある。彼とマリオンが海を臨むラストシーンには彼らのというより作り手の、未来に向かう若さがあふれているように感じられた。