ハムネット


それぞれの家でお前には将来などないと…女であるアグネス(ジェシー・バックリー)は結婚できないと、男であるウィリアム(ポール・メスカル)はろくな仕事ができないと…軽んじられている二人がパートナーになりそれらを達成する話である。出会いの一幕の後、どんなことを言われようとどんなふうに生きようと自分にも権利があるとばかりに帰宅するや食べ物をがっつく二人がよい。

森で蜂が不穏な動きをしている場面に次いでロンドンにペストが蔓延している場面、そしてストラトフォードで娘ジュディスが感染する場面と続くあたりで感じたことに、この映画は世界は繋がっていると言っている。それはグローブ座の舞台の奥の森の出入口が観客に繋がっているのに端的に表れている。物語が、創作物が世界を更に狭くする、手の届くものにすると言ってもいい。観劇が初めてということもあり混乱していたアグネスが「悲劇」を見て最後に笑顔になるのは、そのことを知ったからだろう。森と町ばかりか異なる時間も生と死の世界も繋がっていると。

「私を見て」とは分かり合っていることを確認したい時に言うはずだから、結婚式でのその言葉が最後にまたアグネスの口から出ることからして、これは分かり合っていると思っていた二人がもっと分かり合うことができたという物語である。そしてこれが彼女のセリフであることからも、この物語自体はジェシー・バックリーのアグネスの内にあり、ポール・メスカル演じるウィリアムは外から愛でられる存在だ。家庭を持ちながら仕事を成すためにはこのくらいの苦労や覚悟があってしかるべきと言っているようにも思われた。加えて父から息子に継承される「勇気」が決して何かを攻撃するものではないというのが印象的だった。

大丈夫、大丈夫、大丈夫!


本作のソウル国際芸術団舞踊学科という架空の場での群舞は、女子達の幽霊談にも表れているように、「皆と同じことをしながら皆より秀でていなければならない」という韓国の子ども達の境遇のように思われた。皆が親に言われるまま頑張る中、母親のためだけど好きだから、楽しいからと笑顔で踊るイニョン(イ・レ)ははみ出し者である。更にそのような場では、彼女と母の願いでセンターを維持しつつその支配から抜け出せないナリ(チョン・スビン)の対立や、ナリがそのまま大人になったようなソラ(チン・ソヨン)の孤立などが起こる。
社会がすぐに変わらなくても、「自分のいるところがセンター」なのだと大人が伝えれば子どもは少し楽になるんじゃないか、これはそういう話である。実際ソラのその言葉に、イニョンは最後のステージで解き放たれる。一人自由に踊る場面が効いている。

とはいえ特に女子だけの群舞は管理下にあることを思わせ冒頭は気味が悪くもあったが、映画の終わりには女だけの集団には意味があるのだと思える。そうでなければメッセージも鈍る(これには『グレート・インディアン・キッチン』(2022年インド)のラストシーンを思い出した)。
それに通じるのがイニョンを取り巻く薬剤師ドンウク(ソン・ソック)と同級生ドユン(イ・ジョンハ)という男二人の、決して女達の中には入らずケアするだけという役どころ。前者は職場である薬局から出ず、後者はイニョンが靴下の匂いを嗅いでもう一日!と履いて登校すると、さては洗ってないなと言いながらベタベタの髪(には見えないが)に香水を振りかけたマフラーを巻いてくれる、女子に人気の同級生だ。明らかに違うのが大家さんで、私も家賃で食べてるんで、週末まで待つよ…って学生がどうやって収入を得ればいいのか(彼女は得るが!)。この持ってる感と他人ごと感が今、最も多数、かつ最も要らないものだ。

自分の気持ちを伝えられない人ばかりの本作において、会話の楽しさは大きな、というか一番に近い魅力である。イニョンとドンウク、イニョンとドユンという気の置けない間柄の軽妙なトークの心地よさは勿論、イニョンがナリやソラとぶつかって本音を引き出す過程が面白い。私も全身があったかくなったイニョンの「先生と帰ろうと思って」「早く帰って来てね」は、ソラが初めて受け取った「好き」だろう。多分初めての奇妙な気持ちになって帰宅して、これまた初めての「誕生日にお腹がいっぱいになる」を経験する。たくさん食べる方がいい、色は多い方がいい、恋はした方がいい、なんてベタな価値観に引っ掛かりもするけれど、近年の韓国映画の中では一番いいと思った(制作は2023年)。

1975年のケルン・コンサート


キース・ジャレットの『ザ・ケルン・コンサート』が録音された公演の立役者だった当時18歳のヴェラ・ブランデスに初めて光を当てた作品…と見始めたら、登場するのはスザンネ・ウォルフ演じる50歳のヴェラ。計算しても「今」ではないし何故と見ていたら、娘を失敗作だと貶す父親(ウルリッヒ・トゥクール)に「あなたにとって失敗作なら、私は正しい」と告げるパートが過去を包むという構成だった。大戦中の苦労から次世代に固い人生を強いる父親に実際には言えなかった言葉なのかもしれないと勝手に想像した(最後に本人も登場するのでやりとりの上で作られたのだろうから)。

ヴェラ(マラ・エムデ)は「初めては忘れない」と言うが、前半は彼女の初めてが連鎖的に続く。クラブでロニー・スコット(ダニエル・ベッツ)に粉をかけるとミュージシャンから初めてセックスじゃなく公演の手配をもちかけられる、実際に仕事してお金を手にする、ベルリンでキース・ジャレット(ジョン・マガロ)の演奏に出会って涙する、父親に殴られ泣いて戻ると金のためか、お前は娼婦だと言われる、母親(ヨルディス・トリーベル)と「約束」をする。

それから記者マイケル(マイケル・チャーナス)を語り手とする、キースとプロデューサーのマンフレート・アイヒャー(アレクサンダー・シェアー)のパートに移る。小さな車で夜通し運転のヨーロッパツアーだなんてとの問いに、ここには商業じゃなく芸術がある、アメリカと違って聞く人がいるとキースは答える。ヴェラと親友イザは人工妊娠中絶合法化デモに参加し、彼氏や友人とは親世代の押し付ける「労働」からどう逃げるかばたばたしていたが、移動中のキースが車から降りてただ自然の音を聞く姿に、ここから音楽が生まれてお金になっていくのが奇妙にも面白くも思われた。

キースの登場からコンサート当日のイザの「完売!」までずっと同音連打が響いている…つまりその間、飛翔はない。「これが世界最後のピアノでもキースは弾かない」からの数時間には胃が痛くなりそうだった。しかしヴェラは絶体絶命、キースは体調最悪でもこの映画は笑える映画である。コメディ調だからとか笑うしかないからとかいうんじゃなく、何とも言えず可笑しい。その最高潮がヴェラがキースの部屋にほぼ押し入って「あなたは甘えてる、私は新境地を提供する」なんて言葉で説得する場面。笑ってしまったが振り返ると比喩的にも思われた。

佐藤忠男、映画の旅


「東京を観光しても分からないリアルな生活が巨匠の映画を見ると分かる」…とは佐藤忠男が言うわけではないが、確かに幾つかの作品が脳裏に浮かぶ。さすればこのドキュメンタリーの柱の一つである、彼が一番好きな映画だという『魔法使いのおじいさん』(1979年マラヤーラム語映画)の制作地ケーララを訪ねる旅には何の意味があるのかと一瞬思ったが、例えば作中の水浴びシーンと現在のそれを繋げることで、数十年の隔たりがあっても映画にいかにリアルがあるかを実証してくれる。カメラマンの口にしていた「ローカル」を実際に掴みに行くわけだ。「『魔法使いのおじいさん』愛好者」との肩書の方が出演していた子ども達を探し当てて話を聞くくだりも最高に楽しい。

アジア映画への入口は韓国映画だったという。旧ソウル駅舎などの映像に「日本はアジアの国々を解放するために戦争していると言われていたのに、韓国映画を見たら、日本はそんなふうに描かれてはいなかった」という佐藤忠男の語りが被る(この後「そうした映画の中にもよいものがあって…」と続くところに、彼にとって映画にはいいものとそうでないものとがあるということが表れている)。後にアメリカでベトナム映画を上映した際に同じような視点の批評があり嬉しかったとの話から、国という境界だけじゃなく色々な視点の映画を見ることが大切なんだと改めて思う。

「映画を見ることに意味があると思うようになったのは戦後『春の序曲』(1943年アメリカ)を見た時」。作中では著書『アメリカ映画』(1990)から、ディアナ・ダービンとすれ違う男がみな明るい表情で振り返るのに何てあっけらかんとしているのかと衝撃を受けたというくだりが引用されるが、手元の『恋愛映画小史』(2017)によると…この話は他でも読んだ覚えがあるので初出は分からないけれど…これは「男達がニヤニヤ下卑た表情をする」日本的常識との対比としての感想である。『恋愛映画小史』には続けて『キュリー夫人』(1943年アメリカ)でムッシュ―・キューリーがひざまずかんばかりに丁重に求婚する姿にうっとりした、この二本で映画狂になったとある。このドキュメンタリーは佐藤忠男のそうした面というか本質を取り上げており面白かった。

佐藤忠男の女性観は端的に言って女性を賞賛する類の旧弊なものだ。パートナーの久子氏につき「美しく品のある女性と一緒になれた、自分はこれでいいんだと思えた」(学生時代に彼氏にこのようなことを言われ不公平だな、私だって理想の男性と付き合いたいと思ったのが自分がフェミニズムに目覚めた切っ掛けの一つ)。ラブレターには「重いものなんて持たせません、結婚したら電気洗濯機もすぐ買います」。こうした感覚には『映画が語る働くということ』(2006)などを読むと分かる、時代や生い立ちによる不安もあったのかなと思う。自身が一個の労働力としてしか見られないことに衝撃を受けたという文があった。とはいえ時代を考慮しても見聞きするのが苦痛な物が幾らもある中、彼の著書は不愉快さが少ないのがふしぎだ。内省のためだろうか?

この映画で一番よかったのは、あまり表に出ることのなかったパートナーの久子氏の存在を前面に出しているところ。作中登場する数少ない、誰かの身内じゃない女性の一人である秦早穂子いわく「あの当時、奥さんを大事にして、一緒に仕事して…(略)だから(二人の共同の仕事につき)めったにしないことだけど手紙を書いた」(対して誰だったか、男性の口調はよくある「きつい女性」を揶揄する感じだった)。『魔法使いのおじいさん』の制作地でのインタビューでゴーヴィンダン・アラヴィンダン監督の妻も「資金繰りからキャスティング、衣裳まで関わった」と話すのでクレジットされているのだろうかと気になったが、振り返るに、本作の監督は、彼女が(多くの著名な男性の女性パートナーがそうしてきたように)仕事をしたのだという事実を残すためにああいうふうに話を聞いたのかなと考えた。

俺たちのアナコンダ


映画監督が夢のダグ(ジャック・ブラック)が自身の書く脚本について言う「テーマはジェネレーション・トラウマだ」に売れない俳優のグリフ(ポール・ラッド)は「皆好きだもんな!」。皆好きなのか、と思うと同時にもしそうなら、そうとも言えるけど見たことのない内容だった『落下音』はカウンターかと思ってしまった。ダグはそれを女性であるクレア(タンディウェ・ニュートン)演じる主役に体現させようとするも色々あって、初対面のアナ(ダニエラ・メルキオール)に別のテーマを体現させようとするも色々あって、結局は彼が作る映画もこの映画自体もダグとポールの友情と夢の話になる。ある意味その方がよい。

当初ダグの役どころは「自ら犠牲になってクレア演じる主人公を助け、それによって彼女に惚れられる」ものだったが事情により(これもまた最近続けて見ている「誰かのペットが死ぬことで話が進む」映画だった)その要素は無くなり、結局「クライマックス」で身を挺して守るのはダグ、守られるのはグリフとなる。あるいはそれが映画監督の仕事なのかもと思う。そしてある人物にグリフが確認する「俳優仲間を守る」、それが役者の仕事なのかも、そうあってほしいと思う。

「白人版ジョーダン・ピールになれるぞ」とはしゃぐグリフをちらと見るクレアの心は読めなかった(演じるタンディウェ・ニュートンは母親がジンバブエ出身のイギリス人)。「おれにはキャリアも家族もない」への「これからだよ」にはどちらも、できれば後者は自分と作ってほしいという気持ちが明らかで、恋とはそういうものかと思ったり。また、目当てのスティーヴ・ザーンは例によって小ネタの集積役のような感じだったけど、それでもよかった。船上でギターをつま弾くのはポール・ラッドじゃなく彼の方にしてほしかったなと思ったり。

落下音


冒頭の一幕、働けと呼ばれるも豚小屋になかなか行かない少女エリカは父親にぶたれる。彼女がこっそり何度も入るのは「役に立たない」もので満ちた部屋だ。片脚のフリッツが日がな寝ているベッド、彼が描いた自身の脚のスケッチ。女中のトゥルーディが拭き上げるとぴくぴくと動くのやエリカが布団をめくって見ようとすることから分かるように、切断された彼の脚は男性器そのものである。「役に立たない」ものが女を惹きつけるのだとも言える。少女レンカの母クリスタがだらんとした夫の性器をおでこに当てて安堵するのも通じるかもしれない、あの気持ちは分かる。

男が戦場に行くとは被害者にも加害者にもなるということで、それを止めるには男が「役に立たない」ようにするしかない。そして女が「役に立たない」ものに惹かれるのは、男は「役に立たない」まま生きる苦痛に落とされるが女は「役に立つ」まま生きるか、死ぬしかないからだ。さすれば「労災」ごっこをした幼いアルマは死んだと私は思ったけれど、どうだろう。不妊手術を施され使用人の男達の性欲処理を担うトゥルーディが「私もフリッツもむだに生きている」が「彼の人生をむだなものにしたくない」と彼に射精させるあの部屋は、あの時代において男と女が交差する唯一の場でもある。

ここで女にとって「役に立つ」とは労働力として搾取されるか性欲処理の道具として搾取されるかのどちらかである。登場時に叔父に脚に手を置かれる場面で加害されていることが明らかな少女アンゲリカが彼に町へ連れて行ってくれるよう頼むのは、こちらも相手を役立ててやろうという試みである。男に性的に「役に立つ」ことから逃れられずそれが自分の存在意義になってしまうというのは『シヴァ・ベイビー』(2020年・アメリカ、カナダ)の主人公の心持ちに通じていると思う、尤もそちらは成人しているが。

アンゲリカの「人は行動ではなくその時どこにいるかで決まる」とは当初意味がわからなかったが、皆でポラロイド写真を撮る時にいなくなるのにそういうことかと思う。男親同士の取引でベルタやトゥルーディのような「女中」にされることになり自死したリアの死体との家族写真への反逆にも私には見えた。ソ連軍による暴力から逃れるために女達が入水自殺した時「うなぎに噛まれて水から出てしまい生き残った」ことから適切に笑えなくなった母イルムの目の前で、川の向こう側(当時の西ドイツ)まで生きて渡り切ってから彼女は消える。かすかに笑った母は娘の逃亡につき嘆きはしなかったのではと思う。

幼いアルマが母親の自分へのまばたきの回数を「愛している」度合いと決め他の姉妹へのそれと比べるのに始まり、序盤の彼女やネリー、あるいは母をガンで亡くした少女カヤは母親の愛に自身の存在意義を置いている。ネリーが自分が沈んだらと想像する、カヤがぼんやり見ている、またアンゲリカが視線に気付かないふりをして浮かぶ川は女達にとって死への道である。

私自身の過去を振り返ると、自分という若い女を見ることで男が楽しみを得ていると分かった時に苦しみが始まったが、それは身体的な痛みに置き換えられるものではない、というのと、この監督インタビュー記事にある「唐突に現れる感情なのに自分の人生や経験を振り返っても説明できない。それは世代を超えて継承されてきたものではないか」というのが、立証されていようとぴんとこないので、この映画のユニークな要素について感想は持てない。しかし少女達がカメラのこちらを見据えるのは、見られていると気付きながらも知らないふりをせざるを得なかった女達とこれからの女達に監督が与えた僅かな救いだと思った。

Riceboy ライスボーイ


母ソヨン(チェ・スンユン)がお昼に持たせたキンパと汁を捨て美味しかったと嘘をつき、明日からは皆と同じ物をと頼んだ息子ドンヒョン(ドヒョン・ノエル・ファン)は、デービッドと名を変えられ16歳になると(イーサン・ファン)更に「皆と同じ」になるためカラーコンタクトを入れ金髪に染める。しかし同じにはなれない。授業中など他の生徒は物を食べたり投げたりと気楽なものだが、おい韓国!と嫌な奴にいつ呼ばれるか分からない彼は常に気を張っている。マヤ・アンジェロウの引用からの家系図作りの宿題にも、兄のを写すという親友ハリーと違い縮こまってしまう。こんな課題の出し方は無神経だが、結果的には(旅の切っ掛けが…というのは少々釈然としないが)彼もソヨンもルーツに還ることが自信に繋がる。この、学校側からすれば荒療治に近いやり方は、ソヨンが幼いドンヒョンに暴力を行使しても…と教えるのにも通じる。マイノリティは正攻法じゃやっていけない。

ソヨンはドンヒョンに『沈青伝』(父親のために娘が身投げする孝女もの)を読み聞かせ、イビャンア(養子)として育った恋人サイモン(監督のアンソニー・シム)にあることを打ち明けた際には「高麗葬」(日本で言う所の「姥捨て山」)について語るなど、韓国(朝鮮)のいわば道徳的な文化を伝える。しかし現実を生きるとはそうではないというのがこの物語だ。息子と韓国へ旅した後の、映画の終わりの彼女の「家へ帰ろう」に家とはどこだろうと考えるに、それは自分が家だと思う場所…ドンヒョンからして死んだ父の実家でもなく、「家で私らと朽ちるのは忍びないから」(この感覚は「一般的」なのだろうか?)と祖父がその骨を埋めた山頂の墓でもなく、二人が共にしてきたあの食卓なのだと思う。序盤に四つある内の空いた席へカメラがそろそろ近付いていくのに、この映画が死んだ父親の視点だと分かる。そこが埋まらないのにもう片方にサイモンが座るのが、デービッドには納得できないのだとも。

家は大人と子ども、女と男が交差する場でもある。大人の女であるソヨンは工場で同じ韓国から来た女性に声を掛けるのを皮切りに数年後には色々な国の女性とテーブルを囲んでいるが(『しあわせな選択』(2025年韓国)にもそれに通じる描写があるが、女は競争に参加できないのでそうしているのだとも言える)、男であるデービッドの方は同級生と女子を肴にし親友の家にポルノのビデオを持っていくことで居場所を保っている(そして少なくとも現地の白人男性は大人になってもそのままである、工場での描写によれば)。最後に現れる境界が、同じ韓国出身でも「シングルマザーが男と同棲するなんて、結婚するならいいけど」という文化で育ったソヨンと、彼女の「あなたは外れくじを引いた」に「そういうのはやめよう」ときっぱり言うサイモンのダンスシーンである。最後のキスは私には別れのそれに感じられたが、あれは物語の途中で、ソヨンが帰った暁にはきっと、残りが夕陽以降の命であっても二人は再会するのだと…してほしいと思う。