越境者たち


映画というかお話としての特徴が二つある。一つはサミュエル(ドゥニ・メノーシェ)が指差す先の何気ないワンカットが『アイガー・サンクション』かよと思う程の絶壁であること、すなわち山映画であること。彼もチェレー(ザーラ・アミール・エブラヒミ)も当初そのつもりはないのでほぼ手ぶらで軽装ときているから、どうなることかと思う。しかし山映画の面白さは無い。登山が究極の娯楽であるのに対し、死にたくない、死なせたくないゆえに山を越えざるを得ないというこの映画がそれを備えていないのは却って真摯なのかもしれない。二つ目は「敵」が、そっちの方が儲かるからと「狩り」に勤しむ、いや愉しむ地元住民であること。この三人組+犬からの逃亡については随分いわゆるご都合主義に見えてしまった。

しかし見ているうち、この映画の最大の肝は主演がドゥニ・メノーシェであるということだと思うに至る。大規模な映画なら、「妻を失い失意の底にある」という一億回見たような設定含めて男性アクションスターがやるような役どころを死の匂いすらする彼が(顔を手で掴まれる姿に『理想郷』がよぎって不安になる)。できることといえば山小屋で女の体をあたためるのにふーふーと自らの命を吹き込むように頑張るなど。無言で相手の服を脱がせようとして抵抗されるこの場面、言葉が通じているんだからせめて説明しろよと思ったんだけど、彼もパニック状態だったということなのだろうか?どうもそういうあれこれが読めない映画だった。決死の覚悟で暗闇から飛び出して相手に飛び掛かる場面には笑ってしまった。

映画は冷たそうで不味そうで、食べられることのない、娘との食事に始まり、難民収容施設での皆とのあたたかい食事に終わる。帰ったら娘とも楽しく食事するだろうとの予感と共に。終盤、サミュエルが自身が起こした事故で失った妻はチェレーに顔が似ていた、少なくとも面影はあったと知った私(達)が覚える少々複雑な気持ち…創作物においても、いやおいてこそ、単なる発端であろうと、理由があるよりはっきりと理由のない親切心や勇気があってほしいと願う気持ち…はこのラストシーンで消える。彼の世界が広がったと分かって。

HOW TO HAVE SEX


食べながらおしっこし、吐いたそばから飲み、しきりに愛してると言い合って手を繋ぐ、卒業旅行初日の親友三人だけの時間。翌朝のプールでいわばセックスの気配に当てられ部屋に戻ってきたタラ(ミア・マッケンナ=ブルース)の、ベッドのエマ(エンバ・ルイス)とスカイ(ララ・ピーク)に向ける弾けるような笑顔には、私にはセックスへの期待というより二人と一緒にこの時を過ごしている楽しさが表れているように思われた。もしセックスしたいならあの笑顔のままでそうできるべきなのに、女には「やりたいセックス」をやる機会がなく、やりたいとなると男に合わせるしかなく、ゆえに笑顔を保てない。

これは同意を得ない性行為という性的加害を扱った作品である。タラを海辺へ連れ出したパディ(サミュエル・ボトムリー)が「面白い女だな」と体をふと寄せてくる、海へ放り込んだ後に「震えがやばい」とからかってくる、あれらの言動がものすごくリアルで(つまり、体験が蘇って)気分が悪くなった。本当の、とは何のことだかという感じだけど、普通の、およそのセックスは、たとえ「やりたいセックス」そのものでなかろうとああいうものではない。女には明らかにやる気がない。しかし少なくとも映像を見ながらなら説明できるが口では難しい。映画の終わりにタラが「だって寝てたのに…」と、この時ではなく次の被害について口にするのは、直近の話をしていたからというのもあるけれど、最初のは言えないからだ。これがあまりに胸に痛かった。

私は寝ないもんね、と言いつつ三人は、いやマリアに集う若者達は疲れれば寝る。タラはこの要領がうまくなく安眠することができない。「彼?彼氏じゃないよ、家族みたいなもの」と言う女の子に迎え入れられたコミュニティ(前日のクラブの「仲間はどこ?」なんて場面には、これまで思ったことなどない「動物の群れ」という言葉が浮かんだ)で遊んだ翌朝の太陽の下と、「一緒にいると楽しい」バジャー(ショーン・トーマス)とのお喋りの後でそっと目を閉じ運ばれたベッドの中にのみ安堵感がある。意外なところでよく眠れるというのもまた覚えがあるが、実は意外じゃなくそこには理由がある。エマの「よくない」「私がついてるよ」はタラと同時に映画の観客へ向けての言葉に思われたけれど、彼女が帰ってよく眠れることを願った。

愛の手紙/ザ・ビンゴ・ロング・トラヴェリング・オールスターズ&モーター・キングス

特集上映「サム・フリークス Vol.28」にて「米国文芸映画二本立て」を観賞。ロマンチックに過ぎるようだけど私としては「決して忘れない」で繋がった。『風と共に去りぬ』のままにイルマ・P・ホール演じる使用人のみが黒人という真っ白な一本目を二本目と一緒に見るというバランスもよかった(今なら二本目の製作や監督も白人じゃないだろうけど)。


▼『愛の手紙』(1998年アメリカ、ダン・カーティス監督)はジャック・フィニィの同名小説の実に素晴らしい映画化。見ているうちにこういう気持ち、全然あると思えてくる。そして犬、『イルマーレ』(2000年韓国)も最後まで犬だった。

ラストカット、書店のウィンドーに並ぶ詩集の表紙で微笑むエリザベス(ジェニファー・ジェイソン・リー)のすてきなこと。スコット(キャンベル・スコット)のために撮られたこの写真において、彼女の側の描写は手紙と写真でしかなされない原作小説では「黒髪はきっちりひきつめられ」とあるのが映画では反対におろした金髪に花が散りばめられている。当時そういう髪型があり得たのか分からないけれど、撮影場面でふと今年見た『マッドマックス フュリオサ』で幼い彼女が逃亡しないよう髪に鈴を付けられていたのを思い出し、あれと真逆だと思い胸がいっぱいになった。後に大佐に会うのに東屋まで抜け出してくる際の、走って揺れる髪も心に残った。

道具屋で古い机に目をつけたスコットが店主に「南北戦争に興味がおありで?」と聞かれそうだと答える。「興味がある」とは?と思っていたら広々とした部屋の壁には剣、PC(コンピュータが普及し始め彼がその仕事に携わっていることが後に大いに活かされる)の脇には大砲の模型、戦地の兵達のジオラマのようなものも飾られている。原作から過去を南北戦争の時代に少々ずらした本作は、そんな彼が、戦争とは愛する人同士が引き裂かれるもの…個人に降りかかるものだと実感する話なのだった。

「外国語を習う場面のある映画」というものがあり(サム・フリークスで掛かった中なら『ローカル・ヒーロー』がそう)似ているようでそれぞれ微妙な意味を持つものだけど、ここではスコットの母(エステル・パーソンズ)がイタリア語をテープで流しながら広い世界を見なきゃと登場する。原作には出てこない、あの頃のインキと切手をくれる彼女の「届いたらすてきでしょ?」がジャック・フィニィの精神であるように私には思われた。


▼『ザ・ビンゴ・ロング・トラヴェリング・オールスターズ&モーター・キングス』(1976年アメリカ、ジョン・バダム監督)はジョン・バダムとクレイグ・モデーノの著書『監督と俳優のコミュニケーション術 なぜあの俳優は言うことを聞いてくれないのか』に撮影中に起きたトラブルと反省の例としてちらと出てくるのでどんな映画だろうと思っていたんだけど、二グロリーグに無知な私には遅ればせながら大変響いた。客席のカットが多いのもいい、Netflixスタンダップコメディは例えばアジア系のコメディアンなら同じアジア系と見えるお客達の盛り上がりを見せてくれるのが楽しいものだけど、あれと同じよさがある。

「お前らが老いぼれになってもおれはオーナーだ」とはまさに資本家のよりどころ。ニグロリーグのチームのオーナー、サリー・ポッター(テッド・ロス)の搾取に耐えかねたビンゴ(ビリー・ディー・ウィリアムズ)は「(同じ黒人である)やつが支配できないところへ出て行こう」とライバルのレオン(ジェームズ・アール・ジョーンズ)らを誘い自分達のチームを結成、白人チームとの試合に乗り出す。ユニフォームにはチーム名「ザ・ビンゴ・ロング・トラヴェリング・オールスターズ&モーター・キングス」を分割、ト音記号だけの者もいる。全てを分け合うのが原則で、入場料の5割との条件を通したギャラは等分。しかし喋れないレインボーが葉巻の箱の金庫を盗まれる、「やつらはおれ達より黒いのに黒人じゃない」と「キューバ人」を目指すチャーリー(リチャード・プライヤー)が襲われるなどの被害で金が飛んでいく、どころか連帯は壊れかける、毎度のことながら自分達のせいでなく。

物語の終盤、ポッターからこれまたこすい提案をされたビンゴがどうするのかと思いきや腹を殴られ喧嘩別れしたレオンをあっさり頼る、ああいうのがいい。Netflixのドキュメンタリー『ブラック・イナフ?!? アメリカ黒人映画史』でビリー・ディー・ウィリアムズが「あの映画は好きだ、ビンゴが楽しいキャラクターだから、ふざけてて」と言っていたのがよく分かる。ラストシーン、ニグロチームとの試合に勝利したビンゴとレオンは球場を後にする(この場面の黄色いスーツを始め本作はビリー・ディー・ウィリアムズのおしゃれな装いも見もの)。若いエスクワイヤ(スタン・ショウ)がブルックリン・ドジャースにスカウトされたことを受けレオンは二グロリーグの終焉を口にするが、ビンゴはこれからもまあ、ぱーっとやろうぜ、おれ達なら絶対に負けないとその場を盛り上げ、二人が抱き合うのに映画は終わる。マイノリティにとって時代とは常に過渡期であり、その中をどう生きるかなんだ、問題は、と私には思われた。

メイ・ディセンバー ゆれる真実


冒頭ジュリアン・ムーア演じるグレイシーが夫のジョー(チャールズ・メルトン)に皿をどう並べるか指示した後、子ども達が屋根へ上るときかないのを娘メアリー(エリザベス・ユー)はそのままに息子チャーリー(ガブリエル・チョン)の方へ気を付けるよう頼むのに、彼女は男、とりわけ「息子」ならコントロールできると思っているのだと考える(「ダメな教師」みたいだとも考える)…からの終盤の、別の息子と「毎日連絡を取ってる」の恐怖。いっぽう娘に対しては違う形で、卒業式のドレスを選ぶ場面で発揮されるようなやり方でもって支配しようとする。後の「体重計がなかったら後悔するわよ」にはアメリカの一面が真に出ているんだろう。

2002年生まれ?うそでしょ、と言いながら相手役のオーディション映像を見たエリザベス(ナタリー・ポートマン)が「もっとセクシーじゃなきゃ」と要求するのに背筋が寒くなった。そうか、そういうことが言えるのかと。自分が演じる人物が惹かれるんだから「セクシー」なはずだと(これは多くは年上の男性によって「女優」に求められてきたんだろう)。映画の終わりの撮影シーンではその目線で選ばれたであろう少年が彼女の相手をしているわけだけど、実にこの映画には頭からお尻まで、「無邪気な」アメリカ人と「考える」アメリカ人、いや「ハリウッド人」がよってたかって「韓国人」を搾取する様が描かれている。ひところアジア系、とりわけ韓国系の男性を「セクシー」の記号のように使う配信映画をよく見たものだけど、今でもそういう目線は絶えないんだろう。

逢引の気持ちを掴みたいからと誘惑のていで職場へ表れるがセックスはしない、器具の使い方が分からないから見てほしいと家へ呼んでセックスする。しない・するの両方が描かれることで、エリザベスにとってセックスは彼女自身が言うようにその程度のものだということが分かる。彼女がメアリーの通う高校に招かれての講義でセックス演技論を語る場面では、その権力と、エリザベスの名前と裸で検索して映画を見たという男や講義で彼女にいきなり質問する男子学生などがふるう女を消費してやろうとの権力が拮抗し、その結果、どちらも持たないメアリーのような者が傷つけられる。

「今は読まないで」と渡された手紙をあのタイミングで見ようとするエリザベスの醜悪さ。彼女をグレイシーと呼び間違えるジョーがそうではないと気付くところから、混濁していた二つの要素が分かれて進み始める。映画はジョーからエリザベスへ「物語じゃなくぼくの人生だ」、ジョーからグレイシーへ「もしあの時ぼくが物を決められる段階じゃなかったら?」とはっきり言わせているが、私にはこの二つの要素、つまり誰かの人生を物語として消費するという搾取、更にそこにある、その際に表に出られる、主張できる者とそうでない者がいるという不均衡、それから子どもの未来を奪うという搾取が同時に描かれることで切っ先が鈍っているように感じられた。後者につきジョーと父親の短いシーン、ハングルの書かれた新聞と灰皿に山となった吸い殻に二人の間の奪われた時間を思い、そうしたことをもう少し丁寧に描いてほしかった。

クレオの夏休み


カメラが全てにあまりに近く、肌や髪、布や金属の触感、雲梯から落ちて怪我した手のひらの痛さや海に近い砂の上を歩く足のめりこみ具合などが自分の中に蘇るけれど、それを体感している人物に移入するわけではなく、そこから一番遠いはずの他ならぬ私自身の奥底に潜っていくとでもいうような稀有な映画体験をした。どこへ潜っていったかといえば、クレオ(ルイーズ・モーロワ=パンザニ)のナニーだったグロリア(イルサ・モレノ・ゼーゴ)と人目につかない場所で抱き合う男性が言っていた「(クレオは)そのうち帰るんだろ」、ここには人々の出稼ぎ先である「金持ちの国」に対する思いもあるわけだけど、その気持ちに私はいつから薄っすら支配されていただろう、という場所だった。

例えば子どもの頃、よそへ移動した好きな先生に手紙を書きながらもう会わないんだろうなとネガティブに考える。しかしこのグロリアは会えるなら会ってその後は「離れて幸せに暮らす」。なんと素晴らしい人だろう、この映画が「乳母に捧ぐ」と終わるのも分かる。ひと夏の成長物語なんて幾らもあるがこの話の設定は意外にも…というのは絶対に世界のそこここにあるだろうことだから…あまり見たことのないものだ。帰りの空港までの車内でクレオがおそらく初めて認識した村の遠景が忘れられない。

カーボベルデに帰ったグロリアの「小さな家」(「だけど私の家」)に来てみれば彼女以外フランス語で話しかけてくれる者はいない。海辺で買ったハタを岩場で焼いて食べる、男の子らは崖から海に飛び込み波を使って危ない遊びに興じる、犬があちこちをうろついている。クレオとグロリアの関係にお金が介在していること、その賃金でグロリアが自分は行けなかった学校に娘を通わせていること、将来のためにホテルを買ったこと、ティーンエイジャーの息子は「いつもいなかったくせに」と不満を抱いていること、それらで構成されている日常の中で二人は大切な時間を過ごす。

冒頭パリの家で入浴中にカーボベルデで使われているクレオール語で「亀」(字幕のカタカナではタルタルガと表記されていたっけ?)を教えてもらう場面で、劇場が大変空いていたので私もRの巻き舌を少しやってみた。後にクレオカーボベルデに渡るとこういうのは文化に触れるといっても針の孔から覗いてる程度のものだと分かるが、それでも孔が無いのとは全然違うと当たり前のことを考えた。

YOLO 百元の恋


人が意思でもって自分の体を変える過程を見せて人の心を動かすという『百円の恋』(2014)の核心を過剰なまでにカバーしつつ、物語のテーマは全く違う。映画の終わり、「勝ちたかった」と男にしがみついて泣く一子(安藤サクラ)と異なりこちらのローイン(ジア・リン)は男に背を向け「私は勝った」とSNSにあげる、すなわち世界に伝えるんだから。日本版はその人の前で泣ける相手がいるのはいいことだよね(これは分かる)、女ならそれが男だとなおいいよね(それがなんであんな男?そういう関係、「風情」とかじゃないんで…)という話に私には思われたけど、中国版は非情であった。非情な世界で自分の勝ちを掴みに行く話。それがよかった。

ジア・リンの100キロから50キロへの痩身は体に負担があったのではとやはり思うけれど(本国で大々的に宣伝されたあれこれは分からないけれど、映画においても本編の後にどれだけ大ごとだったか畳み掛けてくる)、女なら「痩せる」とは男社会への迎合を意味するところが大きいのが、ここではローインの、例えば最後の試合で追い詰められへたりこむ姿や試合後にベンチに座り込む姿などが、彼女が求めて得たものが妹の言う「今のうちにいい男を捕まえれば勝ち」と真逆の方向への勝利であることを示している。「戦った相手と抱き合うのっていい」と言う気持ちも痛いほど分かる。

しかし本作は仕掛けに凝りすぎの感もあり、最後の試合でリングに沈み込んでの回想シーンでローインが妹に、親友に、従妹に薄情な目に遭わされたことが私達に初めて知らされる。父親との会話における「りんごが大小二つ、友達が欲しいと言えば私は二つともあげる」生き方をしてきても全く報われることがなかった…から死ぬ気でボクシングの試合に挑むと決めたのだと種明かしされる。終盤も終盤になってそう分かるまで彼女の気持ちが読めず少々当惑しつつ見ていた。ちなみにこの回想の中にハオ・クンとの性行為の場面もあることから、やけ酒で酔った男を受け入れるのも彼女にとっては「りんごを二つあげる」に相当したのだ、だから彼の誘いに乗らず一人去る、一人進むのに映画が終わるのだと私は受け取った。

存在しない南


イタリア映画祭のオンライン上映にて、今年の上映作『あなたのために生まれてきた』(感想)がとてもよかったファビオ・モッロ監督の2013年の長編デビュー作を観賞。祖母が17歳のグラツィア(ミリアム・カールクヴィスト)に向かって言う「南部なんて無意味だ」が邦題の意味。続けて「でもあなたは違う」。若者が南部の問題を打破していく話、私はもう黙っていないからあなたも黙っていないでという話である。

父親(ヴィニーチオ・マルキオーニ)は家を訪れたマフィアの弟に「トリノに身内がいるなら家と店を売って出て行きな、娘が卒業したら」と暗に売却を迫られる(後には仕入れも止められる)。別居の祖母も含めた家族三人の時間は止まっている。家長である父が息子=グラツィアの兄ピエトロを銃撃で殺された事実を認められず、家や店に愛着を持ちながらも言われるままに経済的に豊かな北部へ越すか否か決めかねているからだ。祖母は「いつも会っている」、父は「会わない」、死んだピエトロは相手の意向に沿ってその前に現れる。誰からも何も教えられず相談もされない子どものグラツィアには自分の意思で会いに来る。彼が実際に現れるふうに描かれるのには、オカルト風味というより被害者をむざむざ死なせないという気概を感じた。

始終眉間に皺を寄せているグラツィアが破顔一笑するのが、日本的に言えば的屋が家業でイタリア中を回っているカルメロの「君が怪我したんだからぼくも怪我すればおあいこだ」なんてあまりに屈託ない一言。学校で「ちんこがついてるんだろ、見せろよ」と男子達に嫌がらせを受けているところから、グラツィアが男でも女でもない存在とされ差別を受けていることが分かるが、自身の認識ははっきりしていないように見える。それが「君は女でぼくは男」などとにこやかに言う彼に心を開いて親交を、性的にも深めていく。外見などは変わらないのが重要で、映画はグラツィアがいわば「ありのまま」で浮上するのに終わるのだった。