君と僕の5分


永川から越してきたギョンファン(シム・ヒョンソ)の「大邱には何でもあって最高だ」にジェミン(ヒョン・ウソク)は「最高かどうか分からない、ここではあったものがすぐなくなってしまう」と返す。globeのDEPARTURESを分け合って聞くバスの外の夜景は、共に歩いた道は、遊んだゲームは、最高以外の何物でもない、例えそれらが消えても、相手と会えなくなっても、自分が思い出を持っていれば…という話、少年達がそのことを知るまで、あるいは受け入れるまでの話である。

少年同士の愛を描いた日本語のアニメ(本作オリジナル)で泣き連れて行かれた映画『猟奇的な彼女』で泣くギョンファンが作中一番泣くのは再開発反対デモで商店街を返せと訴えるも道行く人に無視される母親ギョンスク(コン・ミンジョン!)の姿だが、それはジェミンの言葉と失われつつある自分達の関係を重ねて思い出したからだろう。地下に貼られた「出ていけない」「死んでしまう」「我々も生きたい」などの言葉は彼と水脈を同じくする理不尽さへの叫びだろう。

ギョンファンはジェミンに「なぜバスケを教えてくれるの」「なぜ僕の頭を撫でるの」と聞く。これはなぜと思わざるを、言わざるを得ない者同士の恋物語である。マジョリティにはその必要がない、大抵の男はなぜ女の脚の話をするのか考えないし女の笑顔だけでアプローチしてくる。ギョンファンは電話口の友人になぜ電話をくれたのか訊ねてなぜなんて失礼だと返され、彼の真剣さを疑う。そしてなぜと問う者はそれに答えられない者でもある。ギョンファンは母になぜと聞いてくれと願いつつそれに答えることはできないし、ジェミンの「何となく、お前だから」に確信を持てない。エンディングの5分間は私には、二人がなぜから解放された時間に思われた。

クラスメイトから暴力をふるわれているところへ割って入り相手を激しく攻撃したジェミンに「なぜ助けてくれたんだ」と聞くも答えが得られなかったギョンファンは、ジェミンが好きなFACES PLACESを一人聞いてみる。するとこれまで見えなかったジェミンが現れ、姿を追ったギョンファンは彼がどれだけ辛かったかを初めて知る。教室の隅からひょいと現れた、夜中まで監視されての勉強で一位を取っていたジェミン。ここへ来て私達にもこれが一人じゃなく二人の少年の物語だと分かる、この瞬間が素晴らしく忘れ難かった。同時にギョンファンのように母親に向かって叫ぶことはできなかったであろうジェミンの「現在」ばかりが気に掛かった。

アダムの原罪


小児科センターは裁判所の命令により4歳のアダムから離れない母親レベッカ(マリア・バルトロメイ)を引き離さねばならない。医師は警備員を呼ぶはセンター長は警備を呼ばずに連れ出せと言うは、そんな中、何とかレベッカの力になりたい看護師長ルシー(レア・ドリュッケール)は当人とまず「取り引き」するわけだ、裁判で不利になる、私も擁護できなくなる、だから従ってくれと。それではレベッカの不安や疑念は解消しない。映画における病院からの逃亡は管理下からの自由を表すことが多いがここでのそれは違う。アダムを離さない時点でレベッカは自身を自身で縛っているからだ。

君に責任はないから帰るようにと言われたルシーは家族に電話した後ユニフォームを脱ぐも再び被り、すなわち看護師として、レベッカを調査官とアダムのところへ連れて行き話し合いの機会を設ける。放っておけない、ただそれゆえに。ここからレベッカは「一人」でなくなり、ルシーだけを追っていたカメラはルシーとレベッカを追うようになる。二人は子どもに対してもうすぐ会えるなどの嘘を決して言わない点で同じだが、ルシーは最後にレベッカに大きな嘘をつく。アダムの前で思わず口にしたように「時々すれ違う」大人同士なら打破のためにそれもありかなと思う。

『Playground 校庭』(2021)の子どもらは親の手で学校にいわば送り込まれていたのが、こちらでは否応なしに一緒の親子の様子が描かれる。研修医のしかも女なんてと言いつつスマホに夢中の父親を恥じる息子、フランス語が分からない上に幼い娘達に手一杯で住環境に頭の回らない母親とここなら眠れるからと病院にいたがる息子など、子どもは親から別個の人間として自立している。4歳のアダムも「看護師さんがこれを食べろと言ってたよ」と、あるいは最も大切な気持ちを母親に言い、それがレベッカへの最後の一押しとなる。彼女が息子に繰り返していた類の、つまり分かっていながらの「ごめん」がもう無いようにと思いながら見た。

三人の女強盗


アイルランド映画祭にて観賞。2025年アイルランド、デミアン・マッキャン監督作品。

全編アイルランド語の本作の原題Aontasは組合や連帯という意味だそう。映画は誰のものか分からない血を浴び茫然とした老女コート(ブリージ・ブレナン)の顔に始まり、『メメント』方式に時間が遡ると彼女含む三人の女が地元の信用組合に強盗に入ったこと、邦題の三人とは当初からその三人ではなかったことが分かってくる。

法を遵守する警官として生きてきた主人公マレード(キャリー・クロウリー)がそれでは人を救えないと思い知らされる過程が、逆順の構成によって明かされる(私には効果的というか有機的だとは思えなかったけれど)。夫コリーに暴力をふるわれているシーラ(エヴァ・ジェーン・ガフニー)を法はあなたの味方だと元気づけても、いつ殺されるか分からないと返され確かにそうだと思う。死んだらもう生き返らない。町の皆が知っていて何もしない。マレードに銃を持たせ引き金を引かせる悪はよそから来たわけではない。組合の金を騙し取り採石場を閉鎖するのはそこを「私の」町と言う経営者の息子ダラである。

マレードと対照的な存在が彼女の部下にしてダラの息子のエイモン(アート・パーキンソン)である。彼は採石場閉鎖の反対デモの鎮圧で姉のコートを拘束したマレードの心痛を慮って「大丈夫でしたか」と声を掛けるが、彼女は制服の上着の破れだけを気にする。彼は村の象徴の石柱を購入し自宅へ運ぶダラを連行するが、彼女は違法性がないと手錠を外し謝罪する。エイモンの言動は日本のSNSなら「お気持ち」と言われてしまうものに基づいているが、それが守ろうとしているのはお通夜で食糧を確保せねばならないほどの、移動のガソリン代にも事欠くほどの困窮にあえぐ人々の尊厳である。代理の者がそれを守るという展開は西部劇のそれに近いなと思った。

マテリアリスト 結婚の条件


(以下「ネタバレ」しています)

ルーシー(ダコタ・ジョンソン)がマッチメーカーにとって「宝の山」である結婚式場でふるいコーラにビールを差し出すジョン(クリス・エヴァンス)に再会してのハグが強烈だなと思っていたら、そこに答えがあった。振り返ると現代に疲れた彼女がふるさを体現する彼を求めていたのだと分かる。作中ウェディングシンガーのBaby Roseが歌うThat's Allとエンディングに流れるJapanese BreakfastのMy Babyにのみ日本語字幕がつくが、それがジョンのオファーとルーシーの返歌であり物語のテーマだった。愛はいつかは枯れるが今は咲いている花、あるいはルーシーがジョンに「売らないで、いつか道端で壊れるまで一緒に乗ろう」と言うボルボに例えられる。

「愛とは人生に降ってくる、どうしようもない、でも必要なもの」だというルーシーの信条が作り手のそれと重なっているようだと分かってくる後半で少し白けるも、『パスト ライブス 再会』(2023)が移民してから泣けなかった女性がまた泣けるようになるまでを描いていたのと同様、歯を食いしばって生きてきた女性が楽になるまでを描いているのは面白い。前作のアーサーはノラの夢にふさわしいだろうかと自問しながら、今作のジョンはルーシーに価値をはかられていることを意識しながらやっていくことになる。男の方が多くを負って関係を支えるわけだ。ジョニー・サンダースのYou Can't Put Your Arms Around A Memoryからの作中唯一の回想シーンは、当初二人の別れの理由に見えるが、最後にはあれでもよいという判断の拠り所になる。

ルーシーは自身が夢見る「原始の結婚」から現在までに広がった愛と結婚の間の溝を埋めているつもりでいたが、そこに悪が存在していた、つまり自身が悪に加担していたことを思い知る。「デート専門家」が密室での性暴力の危険を考えたことがないなんておかしな話だが、それほど「項目」には目が眩まされると言いたいのだろうか。被害者であるソフィ(ゾーイ・ウィンターズ)に「(加害者が逃げおおすのを)あなたが許さない」とは随分じゃないかと思った。作中の女達に友人がいないのは商品同士は友だちになれないということだろうが女達は女同士の繫がりを求めている。冒頭と終盤のルーシーのハグはそんな矛盾の中を生きる同志へのそれと言える。愛はコントロールできないから嫌いだと背を向けるハリー(ペドロ・パスカル)にそっとあてる手も。

週末の記録

同居人が行きたがっていた、小豆沢の倉を改装した本屋&カフェへ。apollonのコーヒーにバスクチーズケーキとバナナケーキ、どれもやさしい味だった(ケーキの写真は食べる前に撮るのを忘れたので無し)。帰りに志村銀座通りを往復してマルフクベーカリーでお買い物。「ちくわのフリッター」は具の組み合わせが絶妙でとても美味しかった。

誕生日の夕食は家で数種類のお肉を焼いてもらってパンとご飯と食べて、デザートはパリヤのストロベリークラシックショートケーキに高野のこちらはこの日で終わりのストロベリーショートケーキに近江屋洋菓子店のフルーツポンチという色とりどりさ。楽しかった☆

クリスティ


アイルランド映画祭にて観賞。2025年、アイルランド・イギリス、ブレンダン・キャンティ監督作品。出演しているKabin CrewのSound of the NorthsideのMVが流れるエンドクレジットにあったかく楽しい気持ちになった。

時に口元へ持っていく母の形見のペンダント、毎朝きれいに剃りあげる髪、その他は黒いゴミ袋一つで里親の家から追い出されたクリスティ(ダニー・パワー)は生まれ故郷コーク郊外のノックナヒーニーに12年ぶりに帰り、疎遠だった兄のシェーン(ディアムッド・ノイエス)の家に期間限定で迎えられる。これはあと二週間で18歳という「(里親に)敬遠される年頃」の彼が、誰の誕生日もめでたいという世界に根をおろす話である。

クリスティが外へ出ると早速ティーンエイジャー達が声を掛けてくる。皆で草むらに座って飲んだり食べたり、レオナ(カラ・カレン)が廃車のものらしき椅子を背にしているのを面白く見ていたら、ここではあちこちに家から持ってきたような椅子が置いてあるのだった。ロボット(ジェイミー・フォード)の母とクリスティは塀の外のベンチに並んで彼の母親の話をするし(「ドラッグで儲ける奴らは責任を取らない」とのセリフに実感がこもっている)、クリスティを心配するシェーンは火祭りの晩のカウチに皆と一緒の弟を見て黙って帰る。

外をぶらつくクリスティはすれ違ったクレア(アリソン・オリバー)をやり過ごせない。女性用の施設は見つからないという薬物依存症の彼女は寝袋で寝るとき隣にいてくれと言う。もしかしたら初めて人に必要とされたかもしれないクリスティは朝までそこにいる。その後はロボットの誕生日の散髪を切っ掛けに、その母の経営する美容院の穴埋め(「ジャッキーがまたいなくなった」とのセリフには彼女自身のように女達が今でも男について行ってしまうことが示唆されているのだろうか)から「クリスティ・スペシャル」なる髪型が流行るようになる。現実ではそうでもないが映画ではなぜか美容院は「男女」どちらかの場であることが多いが、この小さな美容室には誰もが来る。

兄のシェーンは自分より帰りの遅い妻のステイシー(エマ・ウィリス)に夕食のボロネーゼを出すのに登場するが、二人の子である赤ん坊の寝かしつけも、後のバーベキューの場面で判明することに料理も全く上手くはない。施設を出て家庭を築いた彼は近所で唯一の「父親」であり、家族と話をすることも知らない。カウチを外に出して誰でもどうぞというステイシーとは違いキッチンで自分の椅子に座っているタイプで、弟より不器用なのだと分かってくる。映画の終わりに初めてなされる母親の思い出話は二人のいわば門出のようで、シェーンも変わるのだとじんとした。

イート・ザ・ナイト


「英語の先生じゃなく進学指導の先生と会ってた、うそをついたのは将来のことを考えたくないから」という、短編『アフター・スクール・ナイフ・ファイト』(2017年)の登場人物のセリフは忘れ難い。その後に本作を見たら、その他の作品は分からないけれど、快適で安全だがずっとはいられない場所から出て行かねばならないという全く同じ話であった。先の学生がそれでも進学指導を受けているのが肝で、押し出されてしまう若者は皆それぞれのやり方で対処する…と思って見ていたら、この映画は出て行けたのに出て行けなかったあれという比喩に終わる。

MMORPG「ダークヌーン」のサービス終了は「市場の変化による」と作中わざわざ説明される。利用者がそこを出て行かねばならないのは自分ではどうしようもないからであり、かつて妹アポ(リラ・グノー)にゲームを教えた兄パブロ(テオ・ショルビ)は今ではそれとは真逆の、全てが自分次第だと思える「自分で作って自分で売る、上司も定時もない」ドラッグディーラーとして生計を立てている。妹がアバターで自由自在に動き回るなら兄は実際のバイクでスピードに賭け、妹が「日に100人殺す」なら兄は実際に暴力をふるいふるわれる。そんななか手を差し出してくれたナイト(エルバン・ケポア・ファレ)と出会って愛し合うようになり、三人のカウントダウンが始まる。

兄妹とナイトの三人が実際に揃う機会はほぼ無いが、互いの中には常に互いがいる。「シマ」を荒らすパブロを痛めつけた男の家に忍び込んだナイトのつけた火をアポが消すくだりの優しいこと、ある意味あれこそがコミュニケーションである。男がナイトの残した優しさにこそ憤ったのは自身が発揮するはずのそれが侵されたとでも感じたのだろうか。いずれにせよあの家の病人は、パブロがアポに(大好きな相手にしかやらない『きょうはなんのひ』方式で!)贈ったパソコンを踏み潰して壊した父親のような父親、あるいは祖父ではなかったのだろうと考えた。