本当に僕じゃない!/エクスプローディング・ガール

特集上映「サム・フリークス Vol.7」にて観賞。テーマに沿っていながら趣の少し違う面白い回だった。手の指の股って心に一番近い体の部分なのかもしれないと思った。


▼「本当に僕じゃない!」(2008/カナダ/フィリップ・ファラルドー監督)は、近所でもって自分も他人も傷つけまくる少年レオンの物語。

映画は彼が死を試みる場面に始まり、何度目かにまた試みるも助かった場面に終わるが、私にはこれは、クソが死ぬ映画があるならクソじゃないからどうしたって死なない映画もある、とでもいうふうに受け取れた。船着場の「海坊主」の無言の行動、ボーリング場のオーナー?の「彼に物はもう売らないが来れば歓迎するよ」、子どもを大切にする大人達の姿が印象的だった。自分の子ならそうもできないだろうって、それなら他の大人ができることをすればいいじゃないか。

首を吊った痣を隠すために巻かれたバンダナからの仕草や台詞に酒(吹き出す)、煙草と大人の真似をしていたレオンが、逆に真似をする余裕もない少女リアと交流することで、彼女のためにおもちゃのピアノを弾いたり三目並べをしたりと一見子どものような真の大人の行動をするようになる。体感としては映画の折り返し辺りでふとカメラが引くと、それは単に「強化ガラス」を割るアクションをはっきり見せるためなのかもしれないが、不意な赤の他人の視点のように感じられどきっとした。もし私達が外でこんな子らを見たら、こんなふうに見えるんだって。


「君が描いたこの地図は…」
「なに?」
「トラクターよりすごい」
「意味が分からない」
「正直に言うと、君を好きになったよ」
「そうなんだ、私も私が好き」

「二人で新しい人生を始めよう」
「私達まだ10歳だよ」
「そう、だからまだ遅すぎない」


▼「エクスプローディング・ガール」(2009/アメリカ/ブラッドリー・ラスト・グレイ監督)は、ゾーイ・カザン演じる大学生アイヴィの親元での休暇の物語。

2009年ならスマートフォンでなくても携帯電話で日々メールのやりとりをしていた記憶があるが、アイヴィがそれを手にするのは通話のためのみ。今、捉え合いたいのだ。後に男友達のアルへ冗談として返す「最近買った服」にポケットが付いているのは着信が体ですぐ分かるようにだろう。アルに「ヴァイブレーション機能を使ったおもちゃ」をもらった直後に恋人のグレッグから別れを告げられるのは、アルのいわばタイミングのよさを表している。大事なことだ。

ブラッドリー・ラスト・グレイのパートナーであり互いに制作を手伝っているというソー・ヨン・キムの「ラブソングに乾杯」(Netflixにて観賞)は私にとって時間を体感する映画だったものだが、これもそうだった。誰かと誰かの時間が流れている。アイヴィがアイの録った音源を後で聞いたり彼がいれば寝たはずのソファで寝たりするのは一緒ではなかった時間を取り戻しているのだと言える。映画の終わりの、どちらも運転はしない車の後部座席の外を捉えたあの映像はタイムトラベルのようだとも思った。

岡さんが「アメリカ版『珈琲時光』かつゾーイ・カザンの最高傑作」と書いてらしたように、本作と「珈琲時光」には遠くの恋人、近くの友人、体が大変な時にその友人が料理を作ってくれるなど多くの共通点がある。驚いたのはどちらにも今は痕跡をとどめていない跡地を訪ねる場面があるところで(こちらの二人はアイが敬愛するニコラ・テスラの研究所のあった場所を訪れる)、これもまた、二人が時間の中に共に在るということの描写のように思われた。

週末の記録


渋谷スクランブルスクエアの、前回は時間が無く横目に通り過ぎたグルマンマーケット紀ノ国屋のカフェにて紀ノ国屋プリンアラモード。運ばれてくるとバナナの匂いがぷんとした。美味しかった。
家へのお土産に、渋谷店限定とあったクロワッサンを二つ。ピスターシュ&アプリコとドゥーブル・ランボワーズ。てっぺんと横の切れ目にコンフィチュールの珍しいタイプで、味もちょこっと癖がある。

オルジャスの白い馬


森山未來が出演しているカザフスタンが舞台の映画」という情報のみで出向いたら西部劇だったので意表を突かれた。面白く見たけれど、森山未來といえば体の動きが魅力的なのがあまり活かされていないようで少し残念だった。

一家の父親が動物をトラックに乗せ仕事に発つ冒頭「マディソン郡の橋」が脳裏をよぎるが、ここでは子どもたちは母親と家に残る。それからしばらく長男オルジャスにとって父の象徴する男の世界、母が象徴する女の世界が並行して描かれる。どちらにも一見波風はないが、彼の中のちょっとした鬱屈、父の世界の方に行きたいという欲望が、斜め気味の画面やら彼の立ち姿やらから伝わってくる。そこへ事件が起きる。

オルジャスが目覚める場面が何度も挿入されるので、少年が一晩ごとに大人になってゆく話のようにも見える。始め「ロシア娘」の水浴を男友達と覗いている記憶の中で起床する、銃のおもちゃを二つばかり置いてある枕元に、最後にはカイラート(森山未來)のくれた馬のおもちゃと父の時計がある。父は馬をくれたが男はおもちゃをくれた、父は市場へ連れて行ってはくれないが男は20キロの道中に連れて行ってくれた。しかし暴力との関わりを消せない男は結局姿を消す。

オルジャスは大人達のしていること…それは「男の世界」と「女の世界」の交点とも言える…を主に窓の中から覗き見る。それは「外」だが、映画の終わりにはいわば「内」を見る、いや遭遇するのだった。あのカットの裸足のエロスは近年のどんな映画のどんなシーンよりも衝撃的。

第220回長崎寄席


開口一番(立川幸吾「牛ほめ」)
柳家さん光「悋気の独楽
柳家権太楼「不動坊」
 (中入)
花島久美(奇術)
柳家権太楼「天狗裁き
 (1/25・ひびきホール)
 (写真はいつも立ち寄る長崎の喫茶店オリーブと、最近出るようになったネタ)

週末の記録


池袋でお茶。
南池袋公園内のカフェはいつも混んでいるけれど、周囲のお店はなぜか空いている。ブルックリンミルズも然り、窓辺の席は居心地がいい。
首都高高架下にあるFABRICではアップルパイとラテにコーヒー。パイ、美味しかった。

カット オフ/BOYS ボーイズ

のむコレ3にて観賞。


▼「カット オフ」(2018年/ドイツ/クリスティアン・アルヴァルト監督)はモーリッツ・ブライプトロイ演じる検視官が連続少女暴行殺人犯に娘をやられる話。突如彼に頼まれ遠隔地で死体を解剖するリンダ役に、大好きな「東ベルリンから来た女」でニーナ・ホスの自転車の後ろに乗った少女、ヤスナ・フリッツィ・バウアー。この映画はあまりにサスペンスが過多で、ある種の面白さが潰されてしまっているように感じた。

作り手には関係ない話だけども、入場時にもらったチラシに「『ドラゴン・タトゥーの女』に対するドイツの答え」(The Hollywood News)とあり、娘を誘拐された父親が…というあらすじからしからしてそんなんじゃないのは分かっていたけれど(だって「娘」だからでしょう?/最後に少女達の顔を次々見せて唐突にエクスキューズしてくるけれども)やっぱり全然そんな話じゃなかった。そもそも女嫌いなんて殆どのお話に含まれている要素であって、「ミレニアム」シリーズの新しさというか良さはそれにどう対峙するかってとこにあったから。

この映画の女嫌い要素はサスペンスの材料の域を出ない、とはいえ、「ストーカーの元彼」(「ストーカーなんて便利な言葉だよね、やってることは全部暴力なのに」)につけ狙われているリンダが死体と一緒に閉じ込められるのは全然怖くない、生きている暴力男の方がよほど怖い、という描写は実によく分かる。


▼「BOYS ボーイズ(2014年/オランダ/ミーシャ・キャンプ監督)は15歳の少年が同じ陸上部の男の子と恋におちる話。体感としては上映時間の8割が少年あるいは少年達の躍動する肉体、1割が顔のアップ、残り1割が他という感じで時折気が遠くなりそうだったけれど、終わってみれば悪くなかった。主人公の恋に気付いた親友のくるりとした睫毛に人間愛、すなわち幸せが宿っていた。

オランダの映画を見る機会はあまり無い。先入観もあってか物語前半の強烈な光と陰、ソフトクリームの美味しそうなことが印象に残った。「最近両親が結婚したんだ、ぼくら子どもに夫婦ってものを見せるため」なんてセリフや韓国映画なら見ることのないどちらが年長か分からない兄弟。それでもやはり、少年は恋する相手の少年に「ぼくはゲイじゃない」と言い放つのだった。

オープニングの息遣いに始まり大方は体を動かしている場面。トレーニング風景には少年マークがしているバンダナのせいもあってか懐かしさを覚えた(私が見たことのある練習なんだから昔ながらのやり方なんだろう)。そこへ更に、少年が別の少年と知り合うことで新たな動き、つまりそれまで知らなかった体の使い方が加わるのが面白い。逆立ちや年の離れた妹を楽しませるための遊び、トランポリンなど。

ジョジョ・ラビット


10歳のジョジョがかっこよく制服を身に着け家の外へ飛び出していくと流れ始めるアヴァンタイトルの「抱きしめたい」は、まずは当時の人々のヒトラーへの「熱狂」に掛けられている。この時点で、しまいまで見ずに、そんな考え無しな…と思わせない何か、何だろう?がワイティティの映画にはある。年始に見た「ロング・ショット」の二人の信条がふと脳裏に浮かんだ。

息子をヒトラー・ユーゲントのキャンプに行かせたり怪我をして帰ってくれば事務所に乗り込んだりといった、始め掴めないママ(スカーレット・ヨハンソン)の行動原理が「できることをする」であると途中のセリフで分かる。匿っている少女エルサ(トーマシン・マッケンジー)の前で「息子かあなたかどちらかを選ぶとなれば…」と打ち明けもするし、「一人でも生き残ればあなた達の勝ち」と、一瞬残酷なのではとも思える言葉も放つ。それも「できることをする」一環だ。

リルケも言っている、『愛する人を束縛してはいけない』って」。それは当初、自身に都合がいいよう右から左へ(左から右へ)書き写されたただの文だが、「愛こそ最強」というママ=ボスの導きによってジョジョの中に正しく根付く。人には本と導きが必要。そしてそう、恋愛自体がナチ的なものへの反抗に違いないのだ。