旅と日々


日本語がない(私には目視できなかった)が日本だと分かる、ラナ・ゴゴベリゼの著書を念頭に言えば美しくはないビル群の光景に次いで、襖の前に座って湯呑みと鉛筆削りを前にノートに向かうシム・ウンギョン。彼女演じる李が書きつけるのが韓国語なのは、後の「来た当初の日本は謎と恐怖に満ちていたが今では言葉に追いつかれてしまった」からして李が今も旅の途中であることを表している(日本語の映画のための文をまずは母語で書く、そこに恐怖の源泉である距離が存在するのだから)。誰しもそうだが李の場合は特にというのが的確か。道なき雪の上を歩く(危ないよ!)ラストシーンの前に書いていたのは内容どころかハングルか否かも見えず少し戸惑ったけれど、もうそれには囚われないという話なのかもしれない。「旅とは言葉から逃れること」なら例えば文学より映画の方が旅に近いとこの映画は言っているわけで、私は映画がそういうことを言うのは好きじゃないから、最後はそのテーマから放たれたと思いたい。

李が書いた文から私が思い浮かべるのとは全く異なる映像が始まり、鉛筆の先から二人が現れて勝手に生き始めたようだと見ていたら、この、李の脚本を元にした映画だと後に判明するパートの河合優実は、キャラクターは違うけど『敵』(2023)から主人公を除いた、すなわち男の幻想のようで、解釈の余地の大きい作品ほど女は「物言わぬ」存在に見えるということを思った。漫画より映画の方が、具体的なくせにというんでその感が大きい。「あなたすてきよ」(私は『海辺の叙景』のラストは二人による主人公の死だと思っていた。この映画のそれには何も思わない)の水着姿とは正反対の、体の線を全く出さない服装の李が男性監督の横で縮こまり、会場の質問に「映画を見た感想は…大雨の中での撮影は大変だったろうというのと、私って脚本の才能がないんだなということでした」と話す「現実」に繋がるのが面白いが、作り手の意図は分からない(『ほんやら洞のべんさん』の男性主人公の「コスプレ」かもしれないから)。

見終わってみれば、李のセリフにある「ストーリーがなければどうにもならない」ばかりが心に残った。宿の主人(堤真一)の「ここを題材にしたらどうかな」に兎小屋の文字や襖の絵に彼の物語を質問しても答えは得られないが、一緒に行動するうちそれが見えてくるとか、主人のいびきで寝られないは作業音で執筆できないはだったのが彼が病院に連れて行かれたことで書くことができるようになるとか、あまりに面白いじゃないか。それはつげ義春のものであってこの映画のものじゃない。変な言い方だけど、これを旅と言うなら、旅なんて、こんなに面白い必要はないだろうと思ってしまった。

平日の記録

所用で木曽へ。木々は紅葉し切って木曽駒は冠雪、立冬前日だったけど本当に冬の手前だった。
道の駅で食べた新そばにかき揚げ、木曽牛コロッケ、開田高原アイスクリーム工房のとうもろこしソフトクリーム、どれも美味しかった。買い物も楽しく、中でもピクルスなどに使う立派なトマトにすんきゴーフレットという面白さ。すんきは大好きだけど…と食べたら酸っぱさは一口目にほんのり感じる程度で普通に美味しかった。

新宿駅からあずさに乗るので、平日なら予約も要らないだろうと構内のランディーズドーナツに寄ったらお客もおらずすぐ買えた。シナモンロールに新商品のオレンジチョコオールドファッション。二千円以上の購入でドジャース優勝記念ドーナツももらえて嬉しい。
ドーナツ繋がりで、少し前、宮益坂にオープンしたアイムドーナツに併設のネオナイスバーガーでネオハンバーガーセットを食べた記録。私はパンが湿っているのが嫌いなのでバーガーはあまり食べないんだけど、これはポテト共々とても美味しかった。

あの時、愛を伝えられなかった僕の、3つの“もしも”の世界。


フィリップ・プティに憧れ「へり」を歩いていて落ちた初恋の人の笑顔にかぶる、「彼のことをどう紹介しよう」…そうだよね、好きな人なら迷うよねと思うオープニング。主人公ドンジュン(ホン・サビン、長じてシム・ヒソプ)の「夢は別の宇宙の自分になること」にカンヒャン(シン・ジュヒョブ)は「全ての『もし』は痛みだ」と返す。クィアの「もし」は全て痛みであり、それによってパラレルワールドが生み出されるというのがこの映画のしっかりした土台である。

映画はアメリカに渡ったカンヒャンが書いたそのタイトルの本にドンジュンが出会うまでの物語を大邱、ソウル、釜山と繰り返す。本の内容につき「パラレルワールドの話でハッピーエンド」とはどういうことかと思っていたら、釜山編はカンヒャンのSo long, see you tomorrow(直訳の韓国語が原題…このばあい日本語には訳しづらかったのかな)にドンジュンのナレーション「物語の終わりは全て同じ、全ての宇宙に彼がいるから、彼が僕の宇宙だから」と終わる。痛みある世界を生きるためのこの限りない感傷が私にはいかにも韓国らしく思われた。

ドンジュンの母(キム・ジュリョン)が病床で「あなたが将来どんな仕事に就くかを知りたいとは思わない、どんな人間でいるかが大切だ」と言う通り、パラレルワールドにおけるドンジュンの職業などの違いは問題ではない。いずれの世界でも同じなのは彼がゲイであること、カンヒャンがいつも心に居ること、そして父親は金と口を出すのみで、母、あるいはほぼ同じ年で癌に罹る姉は「全て分かってる、いつもあなたの味方」と伝えてくれること。苛めや抑圧の直接的な描写はない。辛いことは辛すぎるから示唆されるのみで救いの方が描かれる。姉が胃癌で手術するのには、『テレビの中に入りたい』の二人には時間があっという間だったのを思い出した。本当の自分として生きられないうちに自分も周囲も歳をとってしまうということ。

ハッピー・バースデイ


東京国際映画祭にて観賞。2025年エジプト、サラ・ゴーヘル脚本監督作品。

「私はタダでも働く」、母や姉達のように魚をとるよりずっといいしネリーと友達だから…と思っていた誕生日を持たない少女トーハが、雇い主の家の娘ネリーの誕生日を通じて自分は「働かされている」と知る物語。ラストのバスの場面で、映画の大部分を占める「明るい」描写はそのことに気づく前の彼女の視点だったと分かる。実家でも勤め先の家でも黙っているよう言われつつ小気味よく喋っていたのが、もう口を開かなくなるだろうとも。

あの日、大人達が起きるまで歳の近い二人は対等だったが、寝たふりをしているソファから起こされるやトーハの方は髪を覆ってかいがいしく働き始める。インスリン注射器を扱いボンベの調子を見、独りでに動いているかに見えるほど大きな絵や段ボールを運ぶ。朝のやりとりでトーハの世界には「願いごと」…願いが叶うなんてことはないと分かる(いわく「お祈りと同じ?」)。ネリーにとって願いごととはテントにドールハウス、今年ならiPhoneといった「物」だが、その概念を知ったトーハは「ずっとこの家にいたい」と願いごとのためのろうそくを欲しがる。

ネリーを学校に送ったトーハは、出て行ったらしき夫と会う口実に娘の誕生日パーティを催すことにしたネリーの母ライラ(ネリー・カリム)と近所のショッピングモールに出かける。ライラはトーハに字を教えると約束したりメイドには試着させないとにべもない店員に「この対応をSNSにあげたらどうなるか」と詰め寄ったりするが、「児童労働について書いたらどうなるか」と返されるとあっさり引き下がる。人は安全圏から出ようとはしない。

子どもを雇っていることがばれてはまずいと帰された実家で母や姉、妹までもがポリタンクを手に魚をとる仕事に従事している(それは大の男であったはずの父もロープなしでは命を落とすくらいの危険な労働である)と分かると、モールのプールの仕掛けや整備工場のホースで水遊びしていたトーハの姿が蘇る。夜のバスで隣の姉は疲れて寝てしまい、姉妹や家族、仲の良い同士でも願いごともお祝いもできないであろう未来が窺える。エンドクレジットの母と娘達の写真とメッセージに、監督に意味を聞きたいとめったにないことに思った。

マスターマインド


東京国際映画祭にて観賞。2025年イギリス・アメリカ、ケリー・ライカート脚本監督作品。

冒頭の一幕で美術館を去る際パパと呼ばれるムーニー(ジョシュ・オコナー)だが、自身の家では裏口から出入りし打ち合わせは地下室、食卓では判事である父親(ビル・キャンプ)の「不肖な」息子でしかない。「あいつは建設会社を経営しているのにお前ときたら」に金や人の取り決めなんてつまらないと返した次の場面で首謀者(マスターマインド)として金の算段や人の割り振りの話をしているのが面白い。とはいえこの類の泥棒仕事では首謀者とて実働せねばならず、先の言葉は自分に言い聞かせているのかと考えた。仲間に帰られてしまい「顔の割れている」自分が運転するはめになるのには、学校で授業の穴を埋める責任が管理職にあることが頭をよぎった。結局は彼の人を見る目のなさが満杯になったコップへの最後の一注ぎとなり、水はこぼれてしまうのだった。

警察がやって来た日、怒り心頭の妻テリー(アラナ・ハイム)のブラウスを手に「これは洗ってあるか?」と臭いを嗅ぐなどして荷造りしてやるムーニーの姿は軽薄にも悲しくも見える。当てにしていた旧友二人の所帯でも、新聞を手に座っている、中学の臨時教師をしているフレッド(ジョン・マガロ)は優しいがムーニーに卵とベーコンを注文されるモード(ギャビー・ホフマン)には…ここでもやはり女には…拒否される。フレッドの「弟がやってるカナダの牧場へ行けばいい、お前の言うように徴兵逃れのほかフェミニストもいる、気のいい奴らだ、仲間ができる」にコミューンは性に合わないからと返すのに、ムーニーは泥棒だから一人なんじゃなく一人だから泥棒だったんだと分かる。

舞台は1970年代のアメリカ、マサチューセッツ州の秋。冒頭ラジオから流れる反戦運動についての、明らかに「今」を意識した、「物を言う者は逮捕され言わない者が受け入れられる」「冷笑や無関心が広がっている」が最後まで通底している。デモ中の女性達を揶揄う場面からも、ここでの泥棒行為は反体制などではないと分かる。家へ来た警察が言う「皆の望みは絵が無事に返ってくることだ」に皆とは誰だ、絵が返るとはどういうことなんだと思う(ここに美術品泥棒をテーマにする訳があると思う)。警察の象徴である帽子が見向きもされず転がったままの、よく知っているような結末には、これをどこにも属せない人の悲哀の話と見るか他者を利用してしっぺ返しを受ける話と見るか、私には前者は成り立たず後者におちるしかない話に見えた。母親ともども利用されても泥棒と知っても父親に好意を抱き続ける長男トミーの姿が心に残る。

ローズ家 崖っぷちの夫婦


ローズ家の戦争』(1989年アメリカ)を30数年ぶりに見て印象的だったのは、バーバラ(キャスリーン・ターナー)とオリバー(マイケル・ダグラス)がパーティでのある事につき言い合いになるも最後にはあいつらには分からないさと笑い合って寝るところ。共に友人もいない二人は映画の作り手でもあるダニー・デヴィートが一般論として語ろうと世界に二人だけ、社会から隔絶しており、それがよいことでなくともコメディだし、今より女性差別のはっきりしていた時代の作品でも一対一の関係に感じられ面白く見ることができた。

本作でもアイビー(オリビア・コールマン)とテオ(ベネディクト・カンバーバッチ)は「共犯」となってパーティを抜け出すので「世界に二人だけ」に見える。その理由をリメイク版は彼らが「イギリス人」だというところに置いているのかと思ったら、オープニングに置かれた一番笑えたカウンセリングの場面を除いては意外と強調されない。しかしいくらケイト・マッキノンがあれこれを超越していようとアンディ・サムバーグとの夫婦の存在はアイビーとテオを世界と繋げてしまうノイズだった。終盤皆が軽口っていいね!と二人の真似をするとその場がえらいことになってしまうというのは面白かったけども。

原作小説は分からないけれど、ローズ家とは「片方が稼いだ金でもう片方が家を作り上げるがその間ずっと一人きりだった、その家を互いに譲らなかった」という話である。オリジナルとリメイクでの男女の反転は時代の変化だけではいまだ成し得ず「嵐」を必要とする。同じ週に公開された『女性の休日』(2024年アイスランドアメリカ)では女は男の全てを奪おうとしているわけではないと何度も出てきたし今でもパイを分け合う例がよく口にのぼるが、この映画のいわば「最高裁の判事が全員女性になった」状態は、夢を追いなよと言っておきながら「ぼくは大きな仕事、君は小さな仕事」に戻りたがるテオにしてみれば庇を譲って母屋を取られたという感じなんだろう。それでもDon't be Dickと言い聞かせながら努力した見返りが、オリジナルとは少々異なるラストシーンということになろうか。

女性の休日


日本公開に際してのメッセージでアメリカ人女性のパメラ・ホーガン監督いわく「アイスランドを旅行で訪れた時この話を知り絶対映画になっているはずと見たくてたまらなくなったが無かった、だから作った」。近年の数々の映画同様に力強く証言する女性達の顔を見ながら、間に合ってよかったと思うのは嫌だと考えた。

アイスランドの自然環境の映像に始まる映画は、1975年10月24日の「たった一日」に至るまで何がどうだったか、皆がどうしたかを順を追って語る。女性は夫より早く起きて化粧するべきとされていたこと、稼ぐ必要はないだろうと給料は同じ仕事でも男性の6割程度だったこと(この、国の個人への介入・決めつけが差別問題の根に常にある)、クリスマス前には何種類もの菓子を焼き皆の服を縫いくたびれ果てていたこと。ある母親は本を読む時間もないから子どもを置いて刑務所に入りたいと言っていたそうだ。「女性の休日」でなされた演説は15年前に母が友達とキッチンで話していたこと、というのは強烈だ。

監督の言う「アメリカや日本のような大国にいると忘れてしまう、一人一人の力の大きさ」。映画は様々な立場や考えの女性が一丸となることができた理由に重点を置いている。外に出れば誰もが知り合いか、知り合いの知り合いという感覚は私には分からないけれど、風のように波のように伝わってきていた他国の女性運動の影響に始まり国際女性年が定められたことからの女性会議で300人が初めて一堂に会した時の「どこを見ても女性ばかり」という感動ももしかしたら原動力になったのかもしれないと思う。そして「編み物をしていない編み物クラブ」にまで出向いたり、話し合い落としどころを探ったりする対話の作業の重要さ。

「本当にやる!できる!かならずやる!」の運動歌は「いつか子ども達が言うだろう、母さんが間違いを正してくれたと」と始まっていた。証言者の一人は事前に街で「女性の休日」について尋ねられ「あなたの娘さんや息子さんのため、いずれ分かる」と答えたそうだが、確かに「いずれ分かる」。レッドストッキングスの活動につき「女性を敬っているだけだ」と書いた男性、「強い男性を求めるのは自然の摂理」と書いた女性の当時の写真がちゃんと添えられているのがよい。それこそ当日に警備を担当した男性達の表情まで、何もかもが今に残っている。