100万カットの記憶


「(事故で片目を失ったおかげで)ピントを合わせるのは得意」と作中の桑原史成氏は笑っていたが、これは写真を撮るのが上手な人がたくさん出掛けてたくさん写真を撮ったという映画に私にはまず思われた。90歳を前に現在も日々出掛けているらしき氏の狭い寝床に始まって終わるこの映画は、「恵まれたドキュメンタリー写真家だった」と自身を振り返る男の人生を、足での再訪と感情豊かな(時に写真の前での身振りつきの!)ナレーションでもって私達に見せてくれる。それこそ聖路加病院の医師の名前もその場で出るところなどに映画の姿勢が表れていると思った。写真は撮る側あってのものだとでもいうような。手柄という意味でなく存在の所以とでもいうような。

エンドクレジットのトップは順に並んだ夫婦の名前だったが、見ている方としても冒頭狭いキッチンに一人立つパートナーのことは気になるから、桑原和子氏にとっては夫が外の苦しさを撮りに行く留守の間に一人で子育てする異国での暮らしが「苦しい世界」であったと本人の口から聞いている(それを映画の序盤に置いている)のがよかった。こうした要素には(「美人」にアプローチして結婚したという点も含め)『佐藤忠男、映画の旅』(2025年日本、感想)を思い出したけど、世代的に女性観は旧弊な男性の人生を女性が撮るというのは言ってみればそれしかないやり方かもしれない(しかし監督は相当「優しい」、勿論当のパートナーの立場や意思を大切にしているんだろうけど)。

津和野に帰る列車の中での週刊朝日の写真との「出会い」から水俣に飛ぶのに始まる日本パートに次ぐ韓国パートの冒頭、それまでとは異なり怒涛のように数々の写真が示されるのは、史成氏にとり韓国は職業人として訪ねる国だからかなと考えた。韓国人の「なぜ韓国の貧しい部分を撮影するのか」と日本人の「オリンピックがあったからメディアは水俣病を追わなかった」とは同じだが、自分の国である日本の水俣では漁など住民の生活に加わりつつ撮影できたのが、事情が違うとはいえ清渓川ではセッキャー、チョッパリと怒鳴られ水をかけられながらの撮影だったという。

「無言のデモ」(1965)に映る人物とソウルで再会すると、彼は写真を指してこの人は学生会長になった、この人は今ニューヨークにいるなどと教えてくれる。写真に撮った人に心がずっとある、映画の終わりに史成氏が在韓米軍相手の慰安婦達の粗末な墓を「100人くらい撮った中の誰かがいるかも」と訪ねるのも根は同じだが、比べるものではないと分かっていながらその違いに涙が出た。彼女達を性病治療のために隔離していた、患者が鉄格子を掴んで叫ぶ姿から「モンキーハウス」と呼ばれていた施設跡につき、被害者や市民団体は博物館の建設を、東豆川の地元当局は取り壊しを主張しているという。上映後に氏が言っていた、今の豊かな韓国をどう見ればいいか、どう撮ればいいか分からないというのは、一聴ではよく呑み込めなかったが、そのような「場」が見えないということかなとも思う。

グルスポングの奇跡


オープニングはグルスポングの売り家のキッチンで姉妹が絵を見た瞬間…の再現ドラマの撮影を行っている場面。自分達の身に起きた奇跡を知ってほしいと連絡を取ってきた二人とそれを受け止めた監督の共同作業の和気あいあいに始まる映画は、中盤には家族のもう撮られたくない、終盤には監督の「簡単に考えてるみたいだけどこれで終わりにはできない」なんて訴えを経て、更なる取材と撮影の後に登場人物皆がそれぞれの気持ちに一応は辿り着く。振り返ればあの始まりは終わりとの対比による「こんなに遠くまで」感を出すため、全てはそんなにシンプルじゃないと示すためかと思ったけれど、全体的にエンタメ的なサービス精神が旺盛すぎて、私にはいわば内容の衝撃が薄れてしまった。映画ってやつは、と思う。

私にはこれは、はみだしものとそれに対応…排除もしようとする者とが発生する話に見えた。全員が人生の後半になって!と思うが、だからこそなのかもしれない。はみだしものは、平たく言って問題が起きた時にこそ強く認識される。リータが会社の資金を横領したあげく自殺したとの報せを信じ「二つも罪を犯しただなんて」と墓参りもそうそうしていなかったクリスチャンの姉妹は数十年を経て自死ではなかったらしいと安堵、そこで全てを終わらせようとするが、「私達は家族のはみだしもの」と言うオーウラグは双子の姉の死の真実の追究を望む。孤立した彼女はカメラの前で「彼女達は私のIQの値を知ったら驚くだろう」「私は軍人だから人を殺す訓練をしてる」などと口にする(監督も「彼女達へ違和感を覚える理由は知性?」などと聞く)。こんなところを撮っていいのかと見ていたんだけど、映画の本当の終わりはオーウラグの複雑な気持ちを表す電話の声であった。映画を作ってあの音声まで残したことで、彼女には何が起きたろうと考えた。

ナイトシフト/ザ・ゴールドディガーズ


▼『ナイトシフト』(1981年イギリス、ロビーナ・ローズ監督)のジョーダン演じるホテルの受付係の掃除機の音に合わせての鼻歌には、同じユーロスペースで少し前に見た『ケルト・ユートピア』(感想)での、アコーディオンやトラックにのせての歌を思い出した。尤もこちらのそれは誰に聞かせるものでもない。夜勤の受付係の立てる、書き物をしたり大きなイヤリングを揺らしたりレジを開閉したりする音を耳にする者はいない。逆に彼女は他人の立てる、ブザーに電話、床や階段を移動する音を聞かねばならず、この映画はそれこそが仕事だと言っているようだ。ベースにベルの入る素敵な音楽は他の婦人のためのものであり、食事を持ってくる女性のお喋りとそれを食べる受付係のカトラリーの音は「対等」を思わせる。

「夜が終わると彼女の夜が来る」と見える演出が面白い。受付係が受付係でなくなると、仕事中は無表情だった顔にかなりの時間を掛けて笑みが広がる。オープニング、大きなコインの音の後に始まるオルゴールの音色は彼女が自分に贈る音、「静か」を聞くための音であり、客室の面々の描写のうち悪夢に悶えているおじさんはそれが何だか分からず苦しんでいるように私には見え、映画の終わりのオルゴールの音に人が奏でる音楽が合わさるのは労働者へ向けた作り手の優しさに思われた。


▼続けての『ザ・ゴールドディガーズ』(1983年イギリス、サリー・ポッター監督)に、よくもこの組み合わせをと感心してしまった。女に喋る機会がないということをそのまま描いた映画と、だから喋らせた映画と。こちらは実に饒舌で、「銃を手に女にキスする男の出てくる映画、戦争に勝って家に帰ってくる男の出てくる本、うんざりなんだよ」という同意同意!の歌の後に女達の名前がくっきりはっきり出るオープニングクレジット、そしてナレーション。いきなりクライマックスだ。

その後に、いや作中何度も映る雄大な雪原は、ただ存在しているだけだが人間にしてみれば「資源」であるという点で男にとっての女と重ねられている。「隠されている」と言われても、ただ持っているだけなのに。関わる意思のない黄金を掘りに行く男達の小さな姿の滑稽…に見えて恐ろしいこと。『ナイトシフト』とは少々違った音を聞かされながら働くデータ入力係セレステ(コレット・ラフォン)が「女優」のルビー(ジュリー・クリスティ)を馬で攫いに来る同じ時間が繰り返され、その後に踊る女達が目覚めて別に男、いらなくね?と関わりを拒否する場面が楽しい。地面を掘る少女は女が自分の持っているものを自分で掘らされる、golddiggerにさせられることを表しているのだろうか。

顔 かお


「昔のことじゃないですかー、大丈夫ですよー」とPDのスジン(ハン・ジヒョン)は相手を乗せて話を引き出すが、映画とはそういうものなのかもしれないけれど、韓国が自らを省みる内容でありながら全てが今の日本や世界に繋がっている。女子トイレは少ない、勤務中にお手洗いに行けない、性暴力を訴えると被害者の方が好奇の目に晒される、何十年も経ってやっと被害を口に出せる……。話の根幹である、波風立てる存在を「醜い」と定義し女の口を封じようとする馬鹿馬鹿しくも卑怯な試みだっていまだ続いている(フェミニストを「ブス」だの「男に相手にされない」だのと攻撃するなど)。

『私たちに名刺がないだけで仕事してこなかったわけじゃない』(2025年韓国)が印象的だったこともあり、私にはこれは、名刺を持つようになった女がそんなものとは縁のなかった女達に手を伸ばす話に思われた。スジンのカメラは当初何でも食ってやるという心の表れに見えたが、次第に自分達を食わんとする社会への反撃にも思われてくる。「浮気した夫じゃなくばらした娘の方を殴るなんて」と「まっとう」なことを言っていたドンファン(パク・ジョンミン)が車内でそのレンズを悲しみや非難を越えて怪物のように見るあたりから、二人の立場は逆転していく。

かつての社長チュサン(過去をイム・ソンジェ、現在をキム・ジェロク)の写真は、そのふるまいからして人を自分の物にした証左に思われた。ヨンヒ(シン・ヒョンビン)の遺影の空白は彼女が誰の物にもならなかったことの表れのようだし、夫であるヨンギュ(過去をパク・ジョンミン、現在をクォン・ヘヒョ)が彼に撮ってもらった写真を飾っているのは自身が大きな物の一部だという認識の表れのようだ(『サイコキネシス 念力』(2018)のチョン・ユミは「私達は大韓民国の奴隷だって自覚しなきゃ」と言っていたものだ)。ヨンヒが職に就くのに許した一枚の写真が最後に観客に明かされるのは、100分掛けてヨンヒの人となりを知っておきながら、それでも顔を知りたいかという私達への問いかけのようにも思われた。ジンスク(過去をチュ・ヘウン、現在をチャ・ミギョン)の「彼女の顔を見たら話したくなって」が全てなのにと。

冒頭ヨンギュの取材中のスジンが目を留めて言う「きれいな手ですね」「その傷は何ですか」「後で写真を撮りましょう」。その傷とは、互いの優しさが、女には「波風立てない」ことをやめる勇気に、男には「波風立てない」でおこうとの決意になる、その衝突の跡である。それはラストシーンのドンファンとスジンの対峙にも繋がっている。最後のインタビューで父親をいわば見捨てておきながら、外では彼を立て「韓国の奇跡」を壊すまいとする…家の中の問題は隠されるものだ、今もなお、という話だと思った。

ロゼットの冒険/ニノの友だち


「フランス映画と女たち 2026」にて二本続けて観賞。

エリック・ロメールは学生時代に苦手を覚えて以来数十年見返していないものの、だからこそ「常連女優」による映画ってどんなだろうと見に行ったんだけど、1983年に撮られた連作『ロゼットの冒険』はやはりロメールの苦手なところをそのまま感じて辛かった。しかし1996年のロメールとの共同監督作品『ニノの友だち』に至り、序盤に「不倫したいわけじゃないけど冒険したい」とのセリフを聞いて、ああそうか、あれは冒険の数々で、彼女は映画は冒険だと思ってるんだと受け取って(パール・ホワイトだ)、何だかすっきりした。その冒険の内容が「別れたけど私にまだ心のある男達を呼ぶ」…って私ならぜっっったい嫌!というのに、そりゃ合わないよなとなるわけだけど。しかしどの冒険も最後にはわちゃわちゃになるのが楽しく、『ニノの友だち』で男達が同じ本を持って来るのは岡崎京子の漫画みたいだと思った(似たような経験がある、つまりそれが、彼女が「取り戻す」若さなのかもしれない)。

『ロゼットの冒険』の、アリス・ギイの映画を重ねたような序盤は愛らしいが、その後の、今見ると過剰に赤いチーク(すなわち血色)にくるくるの黒髪にしたロゼットがちょっといいなと思う男性に接近するも彼には恋人がいて、それは長い金髪の女性だという繰り返しはぴんとこず、かつて日本の少女漫画によくあった「大人の女性じゃない私」表象を思い出したものの、フランスの文化が全く分からない。上映後の本人トークで自伝的な要素が一番多く思い入れがあると言っていた「ロゼット、バラを売る」が私も楽しく、エキストラでもないのに真っ黒なパリの人々(サフディ兄弟のニューヨークを思い出した)の中にピンクのセーターのロゼットがピンクのスカートの友人に会いに行くカットが素晴らしかった…けど今日見ると黒いモブの中をゆくちいかわのようだった。

カラミティ・ジェーン&デルフィーヌ・セリッグ ひとつの物語


「フランス映画と女たち 2026」にて観賞。カラミティ・ジェーンが娘へ宛てた手紙に魅せられていたデルフィーヌ・セリッグの構想をバベット・マンゴルトが受け継ぎ完成させた2020年作品。

日本語字幕を作成した竹内氏による前説で「靴箱のようなところに保管されている」セリッグのメモのうち作中には出てこないが大切だと思われるものとして、「日記を読むと今はいない人が今を生きる」「そうするとジェーンが私に、私がジェーンになる」というようなことを話してくれたおかげで、セリッグのメモなのかジェーンの日記なのかそれを元にしたセリッグのメモなのか判然としない(しゃんと見ていれば分からないことはない)序盤がすんなり飲み込めた。次第に、セリッグの息子のダンカン・ヤンガーマンが朗読しながら見せてくれる手紙やら何やらによって、「それ」はスクリーンと私との間で起こり始める。

「デルフィーヌ・セリッグがジェーンの娘にゆかりのある女性に話を聞きに行く」二度の場面においてセリッグはスクリーンの中に後ろ姿で大きく登場し存在感ある聞き手を演じているが、これは誰かが誰かに話すのを見るという意味で「母が娘に宛てた手紙を私が見る」のに似ている。「船長夫妻に育てられた非常に上品な娘」がなぜ母親の手紙を世に出すことになったのか、なぜあなた(語り手の女性)や世間は彼女が娘だと信じたのかという話題が何度も出てくる理由は私には分からなかった。それはいわばリングのようなものだからだろうか、あるいは真実はどうでもいいから敢えてなのだろうか。

星の時


使い回しの雑学や宣伝広告と共に時間を刻むラジオ時計が私達に告げるのは、要するに時が流れているということである。もうすぐ19歳のマカベーア(マルセリア・カルタッショ)がそれを好むのは、知識や消費といった未知の世界に惹かれているのか、時が過ぎることに生きる実感を覚えているのか、どういうことだろうと考えた。何も教えられず何も持たされず一人都会に出てきた彼女は「自分」という感覚が掴めず、今回の上映のキャッチコピーの「わたしはタイピストで、処女で、コーラが好き」は自分で引いた自分の輪郭線である。ただしこの三つは選択の結果というより追われた結果である。

一方でオリンピコ(ホセ・デュモント)は同僚から盗んだ腕時計を身に付け、ラジオ時計など要らないと言う。他人に教えてもらうのなんてまっぴらだという彼は「自分」をよく知っている気でいる。いわゆる「不良学生の行為」が男女で異なるという話は昔からよくされるが、(「不良」という意味ではなく)同じ北東部から来た、同じように両親のいないマカベーアとオリンピコの違いはそれを思い出させる。二人は出会うなり惹かれ合い、最初の散歩こそ楽しいが、雨に降られると、すなわち災難が降りかかるとそれを分け合って軽くすることはできない。なごませようとするマカベーアの嘘も逆効果だ。「無い」ことが不和を加速させるといった描写は、物語として誠実に思われた。

同僚のグローリア(タマラ・タシュマン)がマカベーアに憐憫の情を抱きつつ「恋人を奪う」行為に出るのは、「結婚しなければならない」という社会規範のせいだ。グローリアとマカベーアの間には歴然とした力の差があり、それは悪気はなくとも強いものが弱いものを食ってしまうという、猫とねずみの組み合わせに露骨に例えられる。強いとは都市の出身で、肉やケーキを食べて育ち、大勢の肉親がバックについているということ。オリンピコの前に姿を現す彼女が、撮り方のため巨大に見える場面は異様で心に残る。しかしグローリアなんて簡単に左右できる多々の力の存在は忘れてはならない。

『My Birthday』展からの幾つかの映画で、自分の力では何事もどうすることもできない立場の者が頼るものだと思わせられたタロット占いが、1977年に女性が書いた小説を元に1985年に女性が作ったこのブラジル映画においては、分け合うことができない、あるいは限られたパイを分けるしかない世の中で女が女から資源を奪う手段として描かれていた。フェルナンダ・モンテネグロ演じる、結婚はせずダイヤに拠って生きる占い師が、マカベーアにする最大の、心からの助言が、「あなたは男の残忍さには耐えられない、女同士ならどう?」であるのが最高に心に残った。