エレノアってグレイト。


数多の変奏映画がある「主人公が嘘をついてしまう」要素ばかりが予告編から響いてきたのは当事者じゃない人間が話を奪うことの強烈さゆえだけど、見てみたら、一人の女性がソウルメイトに遺した話が二人の外に出て次世代へ継承されるまでの物語だった。実際の生存者であるリタ・ゾーハー演じるベッシーの語りと、語り終えて安らかに眠る彼女を見守るジューン・スキッブ演じるエレノアの顔に映画が終わるのは、生存者への敬意の表れであるのと同時に、この物語では話を伝えることがベッシーの願いだったと、もっと言うならソウルメイトに出会えたからこそ話せたのだと言っているようだ。尤もそういう物語を作ること自体への疑問はある。

一番強く感じたのは、老女だからっていい人じゃないというのが全編に散りばめられていたこと(まだそんなこと言わなきゃならないのかって感じだけど世の歩みがのろいから仕方ない)。エレノアとベッシーという女二人の朝食がトーストにジャムだけというのもいいし、婆さん同士でも気が合う人とそうでない人がいるということが描かれているのもよい。施設に入ってほしいとばかり願ってはいるが愛のある家族がいようと友だちを(あるいは「男」を)欲する気持ちも。それはジッパーを動かすのを手伝って優しい人ねと言われ、ぱっと輝く顔がアップになるのに表れている。

エレノアがベッシーの…二人の話が別の形を取ったニナ(エリン・ケリーマン)の原稿を読む場面は面白い。ベッシーの物語が形を変えていくのを見ていると、この映画ではラストシーンに置かれた「原型」のかけがえのなさ、それを継承することの難しさと責任の大きさを強く感じる。それゆえ、誰もが完璧じゃないという話だと分かってはいても、エレノアの話を世に広めようとする面々の行為が軽く描かれているのはちょっと受け入れ難かった。とりわけニナの父親のロジャー(キウェテル・イジョフォー)の最後の行為は、先に広まった記事の払拭のためだとしても、サプライズは嫌だと言ってるだろと納得できなかった。

シラート


(以下「ネタバレ」しています)

彼女は最後に「ぶちかませ」と言った、息子は最後に「ブレーキをかけろ」と聞いた、などとルイス(セルジ・ロペス)達が車内で話すのは、死者は何もできないから生きている方が手を伸ばすしかないのでそうして最後の接触を反芻するわけだ。しかし彼らも死へと追い込まれる。あの世界…この世界では死なんていつ降りかかって来るか分からないのに、少なくとも見ている私は、話している彼らは「確実に」生きていると思う。振り返ると奇妙だ。

モロッコでのレイヴに現れた軍の、危険だからEU市民は退去するようにとの命から逸脱する三台の車。しかし次のレイヴ会場を目指して進む道のりには、紙の地図を見る場面とは関係なしに「逸脱」とは遠い感じを覚える。それは何かによって送り込まれる死への早送りの道で、戻った暁には結局みなと同じ線上をゆくことになる。大事の前に個人はどうしようもないということを表しているのかなと思ったけれど、今それを描く意味は分からなかった(ある意味、これを肯定的に恋愛などに利用しているのが韓国ドラマの諸作品だと言える)。

ジェイドが「ぶちかませ!」の直後に爆死すると、次に足を踏み出す者を見る私達は作中初めての緊張を感じることになる。地雷原をゆく車にはらはらしていると爆発するが無人だったと分かり一瞬ほっとする。こうした見せ方はそれこそスピルバーグ映画もかくやの面白く見せるための工夫のように思われたけれど、この映画ではそれらが装飾されず剥き出しなのが私にはあまりよく感じられなかった。義足の男の人形劇などのいわば「普遍」から離れた場面だけが面白かった。

君と僕の5分


永川から越してきたギョンファン(シム・ヒョンソ)の「大邱には何でもあって最高だ」にジェミン(ヒョン・ウソク)は「最高かどうか分からない、ここではあったものがすぐなくなってしまう」と返す。globeのDEPARTURESを分け合って聞くバスの外の夜景は、共に歩いた道は、遊んだゲームは、最高以外の何物でもない、例えそれらが消えても、相手と会えなくなっても、自分が思い出を持っていれば…という話、少年達がそのことを知るまで、あるいは受け入れるまでの話である。

少年同士の愛を描いた日本語のアニメ(本作オリジナル)で泣き連れて行かれた映画『猟奇的な彼女』で泣くギョンファンが作中一番泣くのは再開発反対デモで商店街を返せと訴えるも道行く人に無視される母親ギョンスク(コン・ミンジョン!)の姿だが、それはジェミンの言葉と失われつつある自分達の関係を重ねて思い出したからだろう。地下に貼られた「出ていけない」「死んでしまう」「我々も生きたい」などの言葉は彼と水脈を同じくする理不尽さへの叫びだろう。

ギョンファンはジェミンに「なぜバスケを教えてくれるの」「なぜ僕の頭を撫でるの」と聞く。これはなぜと思わざるを、言わざるを得ない者同士の恋物語である。マジョリティにはその必要がない、大抵の男はなぜ女の脚の話をするのか考えないし女の笑顔だけでアプローチしてくる。ギョンファンは電話口の友人になぜ電話をくれたのか訊ねてなぜなんて失礼だと返され、彼の真剣さを疑う。そしてなぜと問う者はそれに答えられない者でもある。ギョンファンは母になぜと聞いてくれと願いつつそれに答えることはできないし、ジェミンの「何となく、お前だから」に確信を持てない。エンディングの5分間は私には、二人がなぜから解放された時間に思われた。

クラスメイトから暴力をふるわれているところへ割って入り相手を激しく攻撃したジェミンに「なぜ助けてくれたんだ」と聞くも答えが得られなかったギョンファンは、ジェミンが好きなFACES PLACESを一人聞いてみる。するとこれまで見えなかったジェミンが現れ、姿を追ったギョンファンは彼がどれだけ辛かったかを初めて知る。教室の隅からひょいと現れた、夜中まで監視されての勉強で一位を取っていたジェミン。ここへ来て私達にもこれが一人じゃなく二人の少年の物語だと分かる、この瞬間が素晴らしく忘れ難かった。同時にギョンファンのように母親に向かって叫ぶことはできなかったであろうジェミンの「現在」ばかりが気に掛かった。

アダムの原罪


小児科センターは裁判所の命令により4歳のアダムから離れない母親レベッカ(マリア・バルトロメイ)を引き離さねばならない。医師は警備員を呼ぶはセンター長は警備を呼ばずに連れ出せと言うは、そんな中、何とかレベッカの力になりたい看護師長ルシー(レア・ドリュッケール)は当人とまず「取り引き」するわけだ、裁判で不利になる、私も擁護できなくなる、だから従ってくれと。それではレベッカの不安や疑念は解消しない。映画における病院からの逃亡は管理下からの自由を表すことが多いがここでのそれは違う。アダムを離さない時点でレベッカは自身を自身で縛っているからだ。

君に責任はないから帰るようにと言われたルシーは家族に電話した後ユニフォームを脱ぐも再び被り、すなわち看護師として、レベッカを調査官とアダムのところへ連れて行き話し合いの機会を設ける。放っておけない、ただそれゆえに。ここからレベッカは「一人」でなくなり、ルシーだけを追っていたカメラはルシーとレベッカを追うようになる。二人は子どもに対してもうすぐ会えるなどの嘘を決して言わない点で同じだが、ルシーは最後にレベッカに大きな嘘をつく。アダムの前で思わず口にしたように「時々すれ違う」大人同士なら打破のためにそれもありかなと思う。

『Playground 校庭』(2021)の子どもらは親の手で学校にいわば送り込まれていたのが、こちらでは否応なしに一緒の親子の様子が描かれる。研修医のしかも女なんてと言いつつスマホに夢中の父親を恥じる息子、フランス語が分からない上に幼い娘達に手一杯で住環境に頭の回らない母親とここなら眠れるからと病院にいたがる息子など、子どもは親から別個の人間として自立している。4歳のアダムも「看護師さんがこれを食べろと言ってたよ」と、あるいは最も大切な気持ちを母親に言い、それがレベッカへの最後の一押しとなる。彼女が息子に繰り返していた類の、つまり分かっていながらの「ごめん」がもう無いようにと思いながら見た。

三人の女強盗


アイルランド映画祭にて観賞。2025年アイルランド、デミアン・マッキャン監督作品。

全編アイルランド語の本作の原題Aontasは組合や連帯という意味だそう。映画は誰のものか分からない血を浴び茫然とした老女コート(ブリージ・ブレナン)の顔に始まり、『メメント』方式に時間が遡ると彼女含む三人の女が地元の信用組合に強盗に入ったこと、邦題の三人とは当初からその三人ではなかったことが分かってくる。

法を遵守する警官として生きてきた主人公マレード(キャリー・クロウリー)がそれでは人を救えないと思い知らされる過程が、逆順の構成によって明かされる(私には効果的というか有機的だとは思えなかったけれど)。夫コリーに暴力をふるわれているシーラ(エヴァ・ジェーン・ガフニー)を法はあなたの味方だと元気づけても、いつ殺されるか分からないと返され確かにそうだと思う。死んだらもう生き返らない。町の皆が知っていて何もしない。マレードに銃を持たせ引き金を引かせる悪はよそから来たわけではない。組合の金を騙し取り採石場を閉鎖するのはそこを「私の」町と言う経営者の息子ダラである。

マレードと対照的な存在が彼女の部下にしてダラの息子のエイモン(アート・パーキンソン)である。彼は採石場閉鎖の反対デモの鎮圧で姉のコートを拘束したマレードの心痛を慮って「大丈夫でしたか」と声を掛けるが、彼女は制服の上着の破れだけを気にする。彼は村の象徴の石柱を購入し自宅へ運ぶダラを連行するが、彼女は違法性がないと手錠を外し謝罪する。エイモンの言動は日本のSNSなら「お気持ち」と言われてしまうものに基づいているが、それが守ろうとしているのはお通夜で食糧を確保せねばならないほどの、移動のガソリン代にも事欠くほどの困窮にあえぐ人々の尊厳である。代理の者がそれを守るという展開は西部劇のそれに近いなと思った。

マテリアリスト 結婚の条件


(以下「ネタバレ」しています)

ルーシー(ダコタ・ジョンソン)がマッチメーカーにとって「宝の山」である結婚式場でふるいコーラにビールを差し出すジョン(クリス・エヴァンス)に再会してのハグが強烈だなと思っていたら、そこに答えがあった。振り返ると現代に疲れた彼女がふるさを体現する彼を求めていたのだと分かる。作中ウェディングシンガーのBaby Roseが歌うThat's Allとエンディングに流れるJapanese BreakfastのMy Babyにのみ日本語字幕がつくが、それがジョンのオファーとルーシーの返歌であり物語のテーマだった。愛はいつかは枯れるが今は咲いている花、あるいはルーシーがジョンに「売らないで、いつか道端で壊れるまで一緒に乗ろう」と言うボルボに例えられる。

「愛とは人生に降ってくる、どうしようもない、でも必要なもの」だというルーシーの信条が作り手のそれと重なっているようだと分かってくる後半で少し白けるも、『パスト ライブス 再会』(2023)が移民してから泣けなかった女性がまた泣けるようになるまでを描いていたのと同様、歯を食いしばって生きてきた女性が楽になるまでを描いているのは面白い。前作のアーサーはノラの夢にふさわしいだろうかと自問しながら、今作のジョンはルーシーに価値をはかられていることを意識しながらやっていくことになる。男の方が多くを負って関係を支えるわけだ。ジョニー・サンダースのYou Can't Put Your Arms Around A Memoryからの作中唯一の回想シーンは、当初二人の別れの理由に見えるが、最後にはあれでもよいという判断の拠り所になる。

ルーシーは自身が夢見る「原始の結婚」から現在までに広がった愛と結婚の間の溝を埋めているつもりでいたが、そこに悪が存在していた、つまり自身が悪に加担していたことを思い知る。「デート専門家」が密室での性暴力の危険を考えたことがないなんておかしな話だが、それほど「項目」には目が眩まされると言いたいのだろうか。被害者であるソフィ(ゾーイ・ウィンターズ)に「(加害者が逃げおおすのを)あなたが許さない」とは随分じゃないかと思った。作中の女達に友人がいないのは商品同士は友だちになれないということだろうが女達は女同士の繫がりを求めている。冒頭と終盤のルーシーのハグはそんな矛盾の中を生きる同志へのそれと言える。愛はコントロールできないから嫌いだと背を向けるハリー(ペドロ・パスカル)にそっとあてる手も。

週末の記録

同居人が行きたがっていた、小豆沢の倉を改装した本屋&カフェへ。apollonのコーヒーにバスクチーズケーキとバナナケーキ、どれもやさしい味だった(ケーキの写真は食べる前に撮るのを忘れたので無し)。帰りに志村銀座通りを往復してマルフクベーカリーでお買い物。「ちくわのフリッター」は具の組み合わせが絶妙でとても美味しかった。

誕生日の夕食は家で数種類のお肉を焼いてもらってパンとご飯と食べて、デザートはパリヤのストロベリークラシックショートケーキに高野のこちらはこの日で終わりのストロベリーショートケーキに近江屋洋菓子店のフルーツポンチという色とりどりさ。楽しかった☆