金子文子 何が私をこうさせたか


獄中手記『何が私をこうさせたか』の肝である…尤も全てが肝だが…全てを奪われ死んだ方が楽だと川に向かうも「(何のために死んだかにつき)どんな嘘を言われてももう『そうではありません』と言いひらきをすることはできない」「私と同じように苦しめられている人々と一緒に苦しめている人々に復讐をしてやらねばならぬ」と生死を意思でコントロールすると決めた場面に映画は始まる。手記の映画化でないならばどういう内容なのかと思ったら、大逆罪で死刑判決を受けたのち恩赦による減刑で無期懲役となった文子が獄中でやれることをやり切る話であった。あれを書いた女は確かにこういう女だったろうと思われた。芸術や執筆を行いたかったわけではない、外の人々にアピールしたいわけでもない、まずは「奴らに自分の言葉を直接浴びせられる」ことに意義を感じていたのだとはっきり描かれている。

菜葉菜演じる文子の口角が下がっているのがいい(苦笑せざるを得ない時など片方だけ上がる)。上がっているはずがないし、口角の下がっている女を見せることには大きな意味がある。作中では市ヶ谷刑務所所長が恩赦の紙ぺらに対して一礼する(!)のを始め人々の言動がつぶさに描写される。新聞で文子の生い立ちを読んで哀れみ「主犯は朴烈なのだから」「刑務所の本分は矯正だ」「反省して『まっとう』になれば仮出獄も可能だ」と声を掛け続ける栃木支所長の頓珍漢ぶりには笑いさえ浮かんでくる。文子は「おまえも特高と同じ、権力の末端にいるんだ」と指摘する。一方で少年房の少女を文子と繋げたり「応援したい」とお喋りしたりする女監二人を始め、女達は文子の思想を変える気は無くそのまま受け取っていると言える。

自ら求婚した朴に「ブルジョア連は新婚旅行というのをやるそうですが僕らも秘密出版でもしませんか」と言われ「クロポトキンの『パンの略取』を訳しましょうか」とはしゃぐと「それよりも二人で何か書きましょう」と返され、夜のベンチで手をそっと彼のそれに重ねるとポケットに導かれる…なんて手記終盤をうまくまとめた場面には、男達に「おもちゃ」にされ憤慨した後の文子の恋心がよくよく表れている。この映画の一番いいのは、そんなふうに惚れた男とでも女は決別するということが描かれているところだ。手記は朴への「私達は共に生きて共に死にましょう」で終わっているが、本作の文子は獄中で考えた末に死こそ自由だと思い至り川辺の朴に別れを告げ、世界から彼を消す。ダメ押しに最後に出る「朴烈は9年後に転向声明を書いた」との文章も効いていた。変わったのは果たしてどっちか?

長孫 家族の季節


コミュニティシネマフェスティバル「日韓映画館の旅」にて観賞、2024年オ・ジョンミン監督作品。

「韓国の女性が座る時に膝を立てるのは秋夕などの準備で日がな座っていても腰を痛めないよう」との文を昔、韓国語の教材で読んだのを、真偽はともかく皆でお供えを用意している女性達の登場に思い出した。尤も「嫁」だけは時に立つ必要にも迫られる。法事のいわゆる本番でも嫁のスヒだけが韓服姿、他の女達はそれなりに楽な格好をしている。一人だけキリスト教徒なので頭は垂れない長女ヘスク(チャ・ミギョン)の生活感あふれる全身に対し、夫と起業しベトナムに住む次女オクチャ、更に後の葬儀に現れるその娘の格好などは外の者のそれである。しかしスヒの韓服が男達の正装と意味が異なるのと同様、格好の自由度は権利があることを意味しない。

ソウルから戻った長孫のソンジン(カン・スンホ)は、大木の元で撮った集合写真にヘスクの入院中の夫の姿を合成する。誰かが大切に見るためではなく家に飾るための写真がこんなふうに「何とでもなる」なんて、家族がもう上っ面だけのものであることの表れだ。しかしその体面はいまだ皆を支配しており、ソンジンに対しセッキャ、お前死ぬ?なんて軽口を叩く姉のミファ(キム・シウン)も弟が来るまで祖母にエアコンを付けてもらえないし、祖父にもの言う際には弟を立てる(…といったことが前半次々とコメディ調に描かれる)。その中で最も表立って大きな対立が、ソンジンの祖父と父(家長と長男)の間にあるのが印象的だった。

映画の終わりにミファに子どもが生まれはするが、最初からずっと、世界は死に向かっているという話に私には見えた。しかしそこには日本人とは異なる事情が横たわっている。「てんぷら」「そでなし」などの日本語を使いハングルの読み書きはできず(ミファに韓国料理の作り方を書き残すためソンジンに習っている)、義理の両親の顔は見たことがないという祖母の描写に始まり、終盤にはこのチョッパリめ!と夜中に起きて叫ぶ祖父の口から語られる、「キム氏は生き残った者の家系」なのだと。「私だけが生き残ってしまった」と日本語で嘆く祖父が家を出ておそらく戻らないラストシーンは、話が個人に収束し家族が霧散することを予感させる。

成績表のキム・ミンヨン


コミュニティシネマフェスティバル「日韓映画館の旅」にて観賞、2022年イ・ジェウン、イム・ジソン監督作品。

ここ数年は感じないけれど、いやそれこそこの映画が作られた数年前までは感じていたけれど、韓国映画には「純粋だった男子が汚れてしまう」悲劇を描くものがあった。対して本作の女子は汚れることを拒否し、「韓国人」なんかになりたくないと言う。「家族も仕事も友だちもなく山の中でただ暮らす」ことを思う、でも何もいらないわけじゃない、たまにあなたに訪ねて来てほしいと。

スヌン(大学修学能力試験)まで100日だからと高校の三行詩クラブを解散した女子三人。ジョンヒ(キム・ジュア)は前席の男子に腕時計を貸し試験をただ座って終え、高齢会員ばかりのテニスクラブに職を得、かき氷を出したりクリスマスツリーを飾ったりとその場を快適にしようと試みるがクビになる。「私は大学生じゃない、時を待ってる」と自らを説明する彼女がノートに書き付ける、本を読む、外国語を勉強するなどの「小さなボール(『こびとが打ち上げた小さなボール』)」はいわば「『韓国人』の将来」には結びつかないものばかりだ。

ミンヨン(ユン・アジョン)はTwitterで見かける「教授に嘆願しても成績は変わらないのにメールや訪問をする学生」そのものである。ああいう行為は近年増えているのか、韓国と日本で学生側の事情に違いがあるのか気になった。ジョンヒが神様ごめんなさいと断って読む日記から分かる彼女の日々はでたらめなようで「努力」という一貫性がある。ミンヨンにはどこへ向かう努力もしないジョンヒが歯痒く、ジョンヒには自分を招いておきながら成績のことばかりのミンヨンが理解できない。しかしジョンヒの「私は透明人間?壁を抜けてみせようか?」(この後半の外しがこの映画の笑いのセンス)の後には仲直り、興じるのが「このカードを引くと給料がもらえるよ」なんて人生ゲーム(?)なのには笑ってしまった。

本作の前に見た『長孫』同様、「韓国人」の象徴として家族写真が出てくる。ミンヨンの、兵役で留守中の兄にあてがわれた部屋のそれには男しか写っていない。大学に編入すればここをもらえるとの約束をしたと意気込みつつ、彼女は注文したドレッサーを解かず椅子代わりのステッパーにもたれて小さな机でパソコンに向かう。ジョンヒが組み立てた鏡で部屋にいる自分の顔を初めて見、不法投棄されていたのに二人で塗装を施したテーブルで食事をする。ジョンヒが残す「『韓国人』の将来」に関係ない項目ばかりのキム・ミンヨンの成績表は、社会からこぼれおちた部分を描く詩のようだった。

ロンリー・アイランド


コミュニティシネマフェスティバル「日韓映画館の旅」にて観賞、2023年キム・ミヨン監督作品。

繁盛店でちゃっちゃと食事を済ませ鏡の汚れた車でスタジオへ帰るユンチョル(パク・ジョンファン)を追うカメラは、並行する道へと離れ少し行ったところで振り返る。娘ジナ(イ・ヨン)からの連絡で学校へ行くと男だ男だと騒ぐ女子生徒の中から一人、ジナの友人ヨンヒが飛んでくる。ユンチョルは彼女の謝罪を聞いて「自作自演で炎上か」、教師の説明を聞いて「作品を処分したんですね」、何でも勝手に要約、解釈してしまう。これはいわゆる「ダメな男を優しく見守る映画」と言えるけど、この類のダメさも視点もこれまでにあまりないもので新鮮…な反面、主人公の造形の面白さばかり感じながら見る映画とは面白いのかと思いながら見始めた。

「私はパパと似てるみたい、ママは友だちも多いしお金も稼ぐけど」とジナは言うが、ユンチョルには彼女がタトゥーを消す理由が分からない。変化に労力を掛ける必要性が理解できない。かつての自分のように美術の道を進むと見えたジナの出家宣言を彼は「自分が行かなかった幻の道」と捉えるが、坊主頭の彼女が最初に映るカットは確かに一瞬夢のようだ。後にユンチョルは恋人のヨンジ(カン・ギョンホン)に「他人も皆思い通りになると思わないで」と言われるが、これはオープニングのカメラのように、自分の歩いている道が他人のそれとは違うと体感するまでの物語に私には見えた。その切っ掛けをくれるのが、父親や親友といった自分とずっと一緒にいてくれると言う相手を好きなまま違う道を行こうとするジナである。彼女を追って来るヨンヒとの場面にはクィアな空気もありぐっときた。

ひょんなことからスタジオに入れなかった日、ユンチョルはそのまま車を飛ばして…いったん死んで生き返る。終盤ジナが「何が大事かは死ぬことを考えると分かる」と言う時、この場面が蘇る。自分も髪を刈った彼があれこれやってみる、ここから映画はオフビートなコメディの様相で面白くなる。ママに料理を作ってあげればよかったのに、と言われて(元妻にはそんなことをする機会はないので)クグスの店を始める。客が来ないなら近所の人に挨拶してみれば、と言われて応答してみる。結局のところ彼のクグス屋に客は来ないが、何でもないかのように店を閉めて一人帰る後ろ姿のラストシーンは、最初の時からこんなにも遠くに来たのだと実感させる。

Shiva Baby シヴァ・ベイビー


シヴァ(ユダヤ教の服喪儀式)に出席した女子大学生の午後を描いたエマ・セリグマン2020年の長編デビュー作。

「コメディ」ながらこんなにも物を食べる描写がしんどい映画ってない。会場に着いたダニエル(レイチェル・セノット)は並べられた料理を皿に盛るが全て戻し、別の料理を取ってはまた戻し…食べ物はまず単純に、女性に求められる「適切な体型」の元になるものであり、食べないようだとすぐさま「(「悪い病気」という意味で)摂食障害なんじゃないの」と言われる。だから食べるところを見せねばならない。

しかし並べられたものと食べたいものが合致しているとは限らない。これは比喩だ。就職、異性との恋、結婚、出産、容姿からファッションまで、世間が提示する女性の選択肢には「許容範囲」がある。その中に食べたい物がなくとも何か選んで取って食べてみせねばならない。元恋人のマヤ(モリー・ゴードン)が遅れて来たのに食べるの?と食事をさほど気に掛けていないのは、食べるところを見せなくても他のことで皆に納得してもらえるからだ。スマホを無くしたダニエルが料理をぱくつく人々のドヤ顔(の幻想)に悩まされるのは、「私だけ」という苦痛ゆえだ。

映画は日本語字幕で「パパ活」とされるシュガ―ダディとのセックスシーンに始まる。相手のユダヤ系男性マックス(ダニー・デフェラーリ)の「ぼくは女性を支援しているから」との買春の定番の言い訳に笑ってしまう(私達の時代はそのまま「援助」と言っていた、「援交」はメディアの言葉、私に言わせれば)。ダニエルのマックスに対する心情はよく分からなかったけれど、私には、彼女にとってはいつの間にか生活の中で大きな比重を占めていた「パパ活」が相手にとっては結婚相手の金をちょっと融通してする程度のことだったのが許せなかったように見えた。若い女性には出来ることが本当に少ない。

ダニエルが周囲を意識せずものを食べるのは、マヤと気持ちをぶつけあってキスした後の一度だけ。何を食べたのか覚えていない、それくらい、見せるためじゃなく単に自分のために口にしていた。彼女はこの時だけ真に生きていたと言える。そしてこのキスの時も、帰りの車中で手をしっかと繋ぐ時も、周囲には人、人、人…だが誰も気付いていない。見つかれば端的に言って「面倒」だろうから幸いだった、というよりは、普通にいるクィアの存在を誰も見ようとしないという描写のように思われた。

嵐が丘


雨の日に暖も取れず震える二人、「エドガーに頼るしかない」に反発して椅子をぶっ壊し薪にするヒースクリフ(ジェイコブ・エロルディ)へのキャサリン(マーゴット・ロビー)の「ヒースクリフ!」からこっち、楽しくて仕方なくなる。他にも色々手立てがありそうなのにこんなことしか出来ない二人、が延々続く予感。分別なんか持つもんかと。かつて家政婦のジラとの営みでキャサリンを目覚めさせた下男のジョセフに後年問うとそんなものから遠く離れた答えが返って来る場面が素晴らしく効いている。

「ヒースクリフは私」が、この映画では単に自分の延長のようなものだから何とでもなると言っているように聞こえる。「愛している」にせよ「彼は私のもの」にせよ、愛と言われるのはその類のもの。男から女への感覚なら珍しくもないはずだ。SNSにもいわゆる境界線のない男の話がよく流れてくる。男が享受してきた愛という名の娯楽を女にようやく、あるいは満を持してやらせている映画だと言える。一方キャサリンに「愛したこともないくせに」と言われるネリー(ホン・チャウ)は「わきまえている」『レベッカ』のダンヴァース夫人なわけで、愛を決して外に見せない代わりに愛以外のものを表に出す。

キャサリンが主役のこの映画では、登場の妙を見せるのは彼女じゃなくヒースクリフだ。やっぱりうつ伏せだよね(『ベイビーガール』(2024年アメリカ)参照)のところへ手から現れるのといい、自慰に気付かれたと思ったら次の場面では眼前に立っているのといい、再会時の影といい見事だ。申し訳程度に父親の所業でエクスキューズされているが、楽して贅沢したい、いい男とセックスしたい、が叶って加速して、あいつを殺そうか、命令してくれ、にこれはやばいと別れることにしたキャサリンがヒースクリフと会わなくなってからは、この嵐が丘は私にはもうつまらなく、すぐ死んで終わりでよかった、あるいは最早、死ななくてもよかった。嵐が丘とは死んでも終わらない話だが、この映画は死んだら終わりなんだから楽しいことだけしようと思わせた。

レンタル・ファミリー


相当の東京映画だった『37セカンズ』(2019年アメリカ・日本)を思い出す映像の数々の後、改札を小走りにホームへ急ぐが電車に乗りそびれるフィリップ(ブレンダン・フレイザー)の場面からそこに生きる人の話になる。日本に住んで7年の売れない役者の「白人男性」がひょんなことから「レンタル・ファミリー」の一員になる。しかし「新郎」役の依頼の裏に日本で同性婚が認められていない(世間も同性愛を受け入れていない)という事情が見えると、そのことへの作り手の姿勢が全く掴めないことに戸惑ってしまう。

私立中学校の入試のための「父親」役にしても、「片親」だから不利だという問題そのものへのあまりの無視の決め込みに引っ掛かってしまう。社長の多田(平岳大)の手元の書類にもあったその理由は依頼主の母親が思い込んでいるだけなのかもしれないが、その辺りはあいまいにされる。入試を受ける当の美亜や、「記者」役として向かい合う有名俳優の喜久雄(柄本明)などフィリップを受け入れる人々の顛末も都合よく感じられてしまった。

『37セカンズ』と本作には共通する監督の信条のようなものが見て取れる。前者で脳性麻痺の主人公が病院から逃げ出したように、本作でも認知症を患った喜久雄が「脱獄」し天草へ向かう。誰かと一緒なら自由への一歩が踏み出せる。フィリップとローラ(安藤玉恵)との関係もそういうことなんだろう。監督はセックスワークには相手の心を解き放つ役割もあると考えているのだろうか。

喜久雄を誘拐したと見做され連行されたフィリップを、社員の愛子(山本真理)と光太(木村文)、多田までが一肌脱いで助ける。その後の愛子とフィリップのやりとりの場面で初めて、ああこの映画って人が人と知り合えばそのままさよならするのが惜しくなる、そんなシンプルなことを描いてるんだと分かった。そういう気持ちから面倒に陥ってしまうフィリップの物語としては面白いが、東京の、日本の物語のように大きく描いているから、それなら他の問題は?と釈然としない。