ホワイトバード はじまりのワンダー


ワンダー 君は太陽』(2017)でオジーを苛め退学させられたジュリアン(ブライス・ガイザー)は新しい学校に馴染めず、転校のせいでということばかりに固執している。「これからは意地悪も親切もしない、normalに生きる」と言う彼の言葉に祖母サラ(ヘレン・ミレン)はnormalな人間…人間性とは何かを語り始める(彼女が話しているという設定なのでフランスが舞台のパートが全編英語でも変ではない…と思う)。人との関わり、もっと言うなら過度なほどの親切の必要性を訴えている点はマーク・フォースターの前作『オットーという男』(2022)と同じ。ジュリアンがnever again.を見出しサラも自身を新たに認め、物語は未来へ続く。

ヒトラーのパリ訪問を伝えるニュース映像の後に『モダン・タイムス』を見て笑う観客、少年の視線を意識する少女を映写室の窓から覗いている別の少年…映画館のシーンのこれらの交錯が見事だと思っていたら、かなりのいわば映画館映画だった。ここでは映画館は権力に抗う場所であり、そこへ行けないとなれば、ジュリアン(オーランド・シュワート)の一家がユダヤ人のサラ(アリソン・グレイザー)をかくまう納屋の中が映画館となる。映画の作り手と受け手が交錯し、二人はドライブインシアターのように車のシートから世界を見る。

ワンダー 君は太陽』で現在のジュリアンはオギーへの酷い写真に「皆のために死ね」と書いたが、こちらでも民兵団となった少年が「人類のために死ね」と発砲する。自分の外に因があるかのような理屈にすがれば、同じ人間を狩ったり撃ったりしてしまえる。幾度か挿入されるのが印象的な、過去のジュリアンを連行する兵士など悪事を行う者の表情が極めて「普通」に見えるのは、自身の中に理由を認めていないからだろう。今の日本でも誰しも陥る可能性のある「非情」だと思った。

現在パートの舞台となる、サラとジュリアンが交流する部屋に有元利夫の『花降る日』が掛かっていたのでびっくりした。美術に無知ゆえ普段は映画の中の絵画についてさっぱり分からないのが、親しい一枚にアメリカ映画で遭遇するとは。

高校


フレデリック・ワイズマンの足跡 1967-2023 フレデリック・ワイズマンのすべて」にて初日に観賞。

『チチカット・フォーリーズ』(1967)の、ここで終わると予想する楽しみを与えないラストに少々びっくりしていたら、続く翌年製作のこちらのオープニングではオーティス・レディングが挿入歌のように流れる。学校が映る最初のショットがロッカーの並ぶ廊下なのには、この日初めて見たこの映画が数々のアメリカ映画の答え合わせであるかのような奇妙な感じを覚えた。

前作同様、組織において権力差のある二者のやりとりが描かれる。体育の授業では体育着を着ろ、先生が待てと言ったら待て、卒業パーティでミニスカートを履くななどと理屈の通らないことを押し付ける教師に対し、生徒達は粘り強く言葉で抵抗する。矯正院では「出さないぞ」だったのが(最初に登場する収容者は「むしろここにいた方が」と言っていたけれど)こちらの決め台詞は「停学だ」。ちなみに私もいまだに年に一度くらい体育があるのに体操服がないという夢を見る。高校の時は体育をさぼって他のクラスに堂々と潜り込んでいたくらいなのに不思議だけど、体操服は世界共通の抑圧の象徴なのだろうか。

教師と生徒の他、学校特有の、保護者という子どもにとって権力を持つもう一方が加わってくるのが面白い。私は勤務している学校の性質上保護者に会うことがないが、この三者の関係ほど権力のシステムにおいて微妙なものはないと思う。父親に馬鹿にされる女子生徒に管理職の教員が「最後に聞こうか、父親にあんなこと言われてどう思う」と尋ねていたのが心に残った(彼女の返答から馬鹿にされることに慣れ切っているのが伝わってきて悲しくなった)。終盤には生徒だけで学校について話し合う場面が挿入される。中には「あの先生は学校を代表して言っているのだ」と学校側に立つ者もいる。

時は1968年、「黒人が半数以下の会に参加できるか」「それでは白人と黒人が半々ならどうか」などと挙手を募っての話し合いが行われている。男女別に行われる性教育では、女子にはピルについて、男子には「責任が取れないならセックスするな」と教えている。家庭科の授業の脚が太くても服装や歩き方できれいに見せようといった内容は今の感覚ではピルの話と全く方向性が違うようだけど、女子は自分の体を意識すること、男子は女子について学んでいるといった印象を受けた(「旧約聖書に女は殆ど出てこないがユダヤ人の家を仕切ってるのは誰だ?女性が『大蔵省』だろう」)。それじゃあ男子は今は自分自身を学んでいるだろうかとふと考えた。

コール・ミー・ダンサー


映画はムンバイの道々で裸足で遊んだり踊ったりする子らに始まる。そのうちそこから生まれたマニーシュ・チャウハンが登場し思いを語りタイトルが出る。彼がダンスを始めた切っ掛けだという映画のワンシーンはインドの若者達が普段着(に見える服装)で男女混じって踊るもので、日本の私が映画館で見たことのない類のものだな、これが「ドキュメンタリー」の面白さだなと思う。ダンスを嗜んでいる人もそうでない人もそれぞれがそこここで私服で踊るエンドクレジットにも心が躍った。

マニーシュが本人役を演じた劇映画『バレエ 未来への扉』(2020年インド、スーニー・ターラープルワーラー監督)には富裕層と貧困層、親と子、バレエを知る界隈と知らない界隈などの間にある対立が分かりやすく描かれており、脚色によりインドの真実を訴えていたとも言える。本作はもっと個人に寄っており生々しいが、宗教や人種の壁をなくそうというメッセージは通じている。

親が子を育て上げた後は子が親の面倒を見るとされる中、マニーシュが両親にようやく渡せたお金は『バレエ』の出演料である。映画以外にダンスで稼ぐことは出来ないというインドにおいて、後ろ盾になれないから子を手放しに応援できない家に生まれた彼はプロになるため世界を転々とする。どの専門家も彼を誉めるのになぜ雇用に繋がらないのか次第に不思議でしょうがなくなってくる。断られた帰りの「雇う気がないのになぜ会うのかな」にイェフダ先生は「厳しい道なんだ」としか答えない。

アメリカのダンス界で「用無し」となったイスラエル出身のイェフダ先生の「インドは嫌いだが75歳の教師を雇ってくれるんだから寛容だ」に対し劇映画でジュリアン・サンズが演じた彼は「『白人』は客寄せになる」と言われていたが、後者が演者に沿った脚色だとしても私にはままある表裏一体に思われた。インドはunsafeだ、道も渡れない、子ども連れのお婆さんを探して一緒に渡ると話していた先生がマニーシュに手を引かれて道を渡るようになり「命ある限り応援したい」との気持ちに至る。彼をダンサーとして送り出した後に地域のコミュニティに加わったとエンドクレジットにあったのには熱いものを覚えた。

女の子は女の子


東京フィルメックスにて観賞。2024年インド・フランス・アメリカ・ノルウェー、シュチ・タラティ脚本監督作品。

男女で勉学の場が分かれていた、女子に機会はなかったと言う母のアニラ(カニ・クスルティ)の時代から娘のミラ(プリーティ・パニグラヒ)が監督生になれる時代に進んでも女の子には常に新たな辛苦が伴うという話で、ここでは学校、家、山のうち学校が一番怖いんだから本当に怖い。女と同じ場にいるとなると男子生徒は集団でミラを笑ったり無視したり追いかけたり、「告白」を断れば露骨に不機嫌になったり、スカートの中を筆記具を落として覗いたり階段の下から写真を撮ったり、シスヘテロ男性用のポルノを教室で見たり。こうした描写には非常に現実味があり、女子校の必要性が論ぜられる理由もよく分かる。

転入してきた男子生徒スリに惹かれたミラが自分の体と性的につきあいチェックするようになる様子が面白いが(自慰に使ったぬいぐるみのにおいを嗅ぐなど)、以前からそうしたことに興味があったように私には見えた。彼女がアニラを嫌う大きな理由は、家父長制下にある家とは結婚前の女をセックスから隔てるものだからに思われた。不在がちな父は一見そのシステムに関係がないように感じられ好きでいられるというわけだ。盗撮されるからスカート丈に気を付けるようにとの注意が女性教師から女子生徒になされるのもこれに通じるところがある。

スリの「人には鍵がある」とは外交官の父について多くの国を移動してきた彼の処世術なのかもしれないが、ノックではなく鍵でもって勝手に心のドアを開けられていたと知れば気持ちは冷める。彼が女性教師を始めアニラや自分にそれを行っていると聞いた時、名門校を出たが家にいるしかないアニラにつき「構ってほしいんだ」と分かったふうに言われた時、ミラには「私たち(女性)」という感覚が芽生えたはずだ。アニラの「私の家の客は私が決める」は(その時は女性に向かって言われるが)そうした操作に毅然と対する自己決定の態度なのである。冒頭から印象的に撮られていたミラの手は、最後にその母親に優しく辿り着くのだった。

ブルー・サン・パレス


東京フィルメックスにて観賞。2024年アメリカ、コンスタンス・ツァン脚本監督作品。

ニューヨークのクイーンズ、客は男ばかりのマッサージ店で、禁止の「サービス」で受け取ったチップを自分の財布にしまい、提示の金額からの不足分をその財布から出す序盤のディディの行動は、男次第の世界で自身の欲望を可能な限り満たそうとするもので、比喩として見れば多くの女性がしていることだ。しかし見えているはずのものから目を逸らし波風立てないよう守ってきた人生は一瞬の暴力行為で吹き飛んでしまう。

(以下「ネタバレ」しています)

この映画はタイトルを挟んで二人の女性が同じことをする話に私には見えた。エイミー(吳可熙)は殺されたディディがつきあっていた出稼ぎ作業員チュン(李康生)と遊びに出て店に泊め同じ床に寝る。しかし「男女の仲」にはならない。本作では射精(を利用すること)が支配と重ねられており、移民の労働者である三人はそれの介在しない関係で安寧を与え合う。店でなされる射精の描写は「白人男性」が彼らにいつでも力をふるえることを示している。

終盤、顔にアザを作ったエイミーを海に誘っての「お金のことは気にしないで」とその後の封筒に、自分の母親を介護している台湾の妻から不足分を催促されているのに金あるじゃんと思うわけだけど、チュンはディディの「仲間」であり、発露の仕方が男ならこうなるというものに私には思われた。社長の妻に肉体を使われた晩、やり場のない憤りから彼は自分の頬をぶちディディにもらった夢=ボルチモアの写真を捨てる…がゴミの中から取り戻す。他に何もないから。

冒頭の「職場は男ばかりでむさくるしいから、君といると楽しい」なんて私ならその場で別れてしまいそうなチュンのセリフからの、女四人がマッサージ店兼住居でわいわいやっている場面の数々に、男も男同士仲良くすればいいのにと思っていると、彼だって「新人」とある程度は親しくしている。しかしあんなことを言うのは同じマイノリティの中にもある男女差、あるいは「女は分からない」という彼の、女とは違う部分の表れだろうか。ともあれ女のエイミーは夢の実体である「ブルー・サン・パレス」を目指し、男のチュンは海へ向かいアメリカの外をただ眺めるのだった。

山逢いのホテルで


スイスアルプスの山間のホテル。クローディーヌ(ジャンヌ・バリバール)は指をさっと舐めて捲った雑誌からダイアナ妃の写真を切り抜き、馴染みのウエイターの青年からチップと引き換えに得た情報で「明日帰る」ような男の席について彼が住む街について聞く。後にそれらの収集は障害者である息子バティスト(ピエール=アントワーヌ・デュベ)のためだと分かるが、私には、彼のことが常に頭にあるというより全てが合理的に組み込まれているだけのように思われた。毎度男が違うのだから毎度服は同じでいいと、制服のごとく前の晩にワンピースを用意するように。その合理的な日常が「間違った道」だったと気付くのがこの物語。気付けばこそ最後にあのような「分からない」が言える。

顔を背けて快楽を得た後はさっと身支度してありがとう、素晴らしい時間だったなどと部屋を後にする。それが以前クローディーヌの首を絞めるスカーフが落ちたのを拾ってくれた、最初に名前を尋ねてきたミヒャエル(トーマス・サーバッハー)とは顔を見てセックスし、彼の論文について話し掲載誌をもらい、去り際の挨拶には互いに名前を添える。裸になるとうっすら残るブラジャーの跡が、いいと思った相手とのセックスでこそ現れる奇蹟のように私には見えた。後日ホテルまでの道中、彼の姿に脇の階段を初めて上ってみる。グランド・ディクサンス・ダムから湖を初めて見る、逆さにも、後には水中からも。彼女にとって初めての眺めの数々に涙が出てしまった。しかし男は女の終着点ではない。恋は気付きの切っ掛けだ。

しかし一番心に残ったのは、女達が、「分かって」いながら手を伸ばし合えずにいること。アネット(マリエ・プロプスト)の「もう母は服を着る気力がない、だから来られなくなる」から分かるようにクローディーヌの家に女達が来るのは彼女が仕立て屋だからであり、用がなければそれぞれの家に分断されてしまう。バティストの面倒を頼んでいるシャンタル(ヴェロニク・メルムー)が手紙の嘘をばらすのは意地悪ではなく「クビにしないで」も賃金だけの問題ではない。互いが互いに話してくれればいいのにと焦れている。こんなばらばらはダイアナ妃の時代の、昔の話だからだ(そもそもこの物語自体がダイアナの孤独に重ねられている)、今は社会の変化によってもっと開かれていると思いたいけれど、一人での介護に行き詰った女性についてニュースで聞いたばかりだから、映画に胸がいっぱいになりつつも複雑な気持ちが残った。

週末の記録

11月最後の週末、恒例の花園神社の三の酉へ。少し早めに行ったので参道も歩けた(いつもは動かず進まないので脇から抜けて帰らざるを得ない)。
夜おやつ用に伊勢丹のCONGALI文明堂で季節限定、スイートポテト味の黄色いこぐま焼きを購入。ほんとの芋の味がした。

これも恒例、ストーブが出たこの時季の紀尾井町オーバカナルへ。海老のタルタルとビーツのサラダ、ソーセージとポテト。バゲットおかわりしてソーセージを挟んで食べた。