
カメラが全てにあまりに近く、肌や髪、布や金属の触感、雲梯から落ちて怪我した手のひらの痛さや海に近い砂の上を歩く足のめりこみ具合などが自分の中に蘇るけれど、それを体感している人物に移入するわけではなく、そこから一番遠いはずの他ならぬ私自身の奥底に潜っていくとでもいうような稀有な映画体験をした。どこへ潜っていったかといえば、クレオ(ルイーズ・モーロワ=パンザニ)のナニーだったグロリア(イルサ・モレノ・ゼーゴ)と人目につかない場所で抱き合う男性が言っていた「(クレオは)そのうち帰るんだろ」、ここには人々の出稼ぎ先である「金持ちの国」に対する思いもあるわけだけど、その気持ちに私はいつから薄っすら支配されていただろう、という場所だった。
例えば子どもの頃、よそへ移動した好きな先生に手紙を書きながらもう会わないんだろうなとネガティブに考える。しかしこのグロリアは会えるなら会ってその後は「離れて幸せに暮らす」。なんと素晴らしい人だろう、この映画が「乳母に捧ぐ」と終わるのも分かる。ひと夏の成長物語なんて幾らもあるがこの話の設定は意外にも…というのは絶対に世界のそこここにあるだろうことだから…あまり見たことのないものだ。帰りの空港までの車内でクレオがおそらく初めて認識した村の遠景が忘れられない。
カーボベルデに帰ったグロリアの「小さな家」(「だけど私の家」)に来てみれば彼女以外フランス語で話しかけてくれる者はいない。海辺で買ったハタを岩場で焼いて食べる、男の子らは崖から海に飛び込み波を使って危ない遊びに興じる、犬があちこちをうろついている。クレオとグロリアの関係にお金が介在していること、その賃金でグロリアが自分は行けなかった学校に娘を通わせていること、将来のためにホテルを買ったこと、ティーンエイジャーの息子は「いつもいなかったくせに」と不満を抱いていること、それらで構成されている日常の中で二人は大切な時間を過ごす。
冒頭パリの家で入浴中にカーボベルデで使われているクレオール語で「亀」(字幕のカタカナではタルタルガと表記されていたっけ?)を教えてもらう場面で、劇場が大変空いていたので私もRの巻き舌を少しやってみた。後にクレオがカーボベルデに渡るとこういうのは文化に触れるといっても針の孔から覗いてる程度のものだと分かるが、それでも孔が無いのとは全然違うと当たり前のことを考えた。