冒頭ジュリアン・ムーア演じるグレイシーが夫のジョー(チャールズ・メルトン)に皿をどう並べるか指示した後、子ども達が屋根へ上るときかないのを娘メアリー(エリザベス・ユー)はそのままに息子チャーリー(ガブリエル・チョン)の方へ気を付けるよう頼むのに、彼女は男、とりわけ「息子」ならコントロールできると思っているのだと考える(「ダメな教師」みたいだとも考える)…からの終盤の、別の息子と「毎日連絡を取ってる」の恐怖。いっぽう娘に対しては違う形で、卒業式のドレスを選ぶ場面で発揮されるようなやり方でもって支配しようとする。後の「体重計がなかったら後悔するわよ」にはアメリカの一面が真に出ているんだろう。
2002年生まれ?うそでしょ、と言いながら相手役のオーディション映像を見たエリザベス(ナタリー・ポートマン)が「もっとセクシーじゃなきゃ」と要求するのに背筋が寒くなった。そうか、そういうことが言えるのかと。自分が演じる人物が惹かれるんだから「セクシー」なはずだと(これは多くは年上の男性によって「女優」に求められてきたんだろう)。映画の終わりの撮影シーンではその目線で選ばれたであろう少年が彼女の相手をしているわけだけど、実にこの映画には頭からお尻まで、「無邪気な」アメリカ人と「考える」アメリカ人、いや「ハリウッド人」がよってたかって「韓国人」を搾取する様が描かれている。ひところアジア系、とりわけ韓国系の男性を「セクシー」の記号のように使う配信映画をよく見たものだけど、今でもそういう目線は絶えないんだろう。
逢引の気持ちを掴みたいからと誘惑のていで職場へ表れるがセックスはしない、器具の使い方が分からないから見てほしいと家へ呼んでセックスする。しない・するの両方が描かれることで、エリザベスにとってセックスは彼女自身が言うようにその程度のものだということが分かる。彼女がメアリーの通う高校に招かれての講義でセックス演技論を語る場面では、その権力と、エリザベスの名前と裸で検索して映画を見たという男や講義で彼女にいきなり質問する男子学生などがふるう女を消費してやろうとの権力が拮抗し、その結果、どちらも持たないメアリーのような者が傷つけられる。
「今は読まないで」と渡された手紙をあのタイミングで見ようとするエリザベスの醜悪さ。彼女をグレイシーと呼び間違えるジョーがそうではないと気付くところから、混濁していた二つの要素が分かれて進み始める。映画はジョーからエリザベスへ「物語じゃなくぼくの人生だ」、ジョーからグレイシーへ「もしあの時ぼくが物を決められる段階じゃなかったら?」とはっきり言わせているが、私にはこの二つの要素、つまり誰かの人生を物語として消費するという搾取、更にそこにある、その際に表に出られる、主張できる者とそうでない者がいるという不均衡、それから子どもの未来を奪うという搾取が同時に描かれることで切っ先が鈍っているように感じられた。後者につきジョーと父親の短いシーン、ハングルの書かれた新聞と灰皿に山となった吸い殻に二人の間の奪われた時間を思い、そうしたことをもう少し丁寧に描いてほしかった。