僕の名はパリエルム・ペルマール


インディアンムービーウィーク2020にて観賞。2018年、マーリ・セルヴァラージ監督。ダリト出身の「弁護士志望、パリエルム・ペルマール」は法科大学で中間カーストのテーヴァル出身のジョーと親しくなるが、彼女の親族から酷い仕打ちを受ける。

カースト差別を告発するこの映画には、笑いや喜びなども描かれつつ全編に渡って悪意による恐怖が流れている。以前にも書いたように私が映画で一番恐怖を覚えるのは「ロボコップ」の冒頭だけども、存在しているものは同じ。ある種の人は人を人と思わない、暴力によって失われたものは決して戻らない。この世に在ると私達が勘付いていることが明確な形を持って現れている。

ジョーの父に「君も娘を愛しているのか」と問われたパリエルム・ペルマールいわく「分かりません、分かる前に打ち砕かれてしまったから」。この特集で見た「結婚は慎重に!」でも本作でも恋人の存在はあくまでも切っ掛けで、主人公は自身の尊厳のために闘う。愛があれば乗り越えられるなどと描かないのは誠実だ。しかし現実同様、なぜ差別される側がこんなに頑張らなきゃならないのかと思わずにいられない。もちろん特にこの映画はそこのところを、すなわち世の中じゃなくお前が変われと訴えているわけだけども。

授業中に友人アーナンドが「女の子だからあんな罰で済んでるけど…」と言うけれど、この社会には女性を酷いことに触れさせまいとする傾向があり、それゆえこの映画ではジョーは「真実」を知らずに終わるのだろうかと考えた。作品としてそれを善としているわけではなく、現実を反映させているのかなと。彼女は勿論、「真実」から遠ざけられていたと知れば憤りを覚えるだろう。

近年の映画には差別する側の叫びもちゃんと織り込まれているけれど、例えば「はちどり」の父や兄の涙など、私は監督の意図は分かるけれども無くてよかったと思う方。本作のジョーのいとこの「ぼくらの名誉が砕け散ってしまう」という悲痛な叫びも必要ないと思ってしまった。