94歳のゲイ


冒頭「勝手に撮るな、ここは西成やぞ!」との映っていない人物からの怒号をよそに、炊き出しのおかゆを立ったまま箸で食べる長谷さんがこちらを見るのを捉えるカメラに、素朴な視点のドキュメンタリーだなという印象を受ける。西成という場所を伝えたいのか、怒号の主と「男の、じいさんの町だから」と89歳で越してきた長谷さんの違いを表現したいのか。撮られることに抵抗のない長谷さんに甘えているように見えるし、何度か口に出される「(撮影している)あんたとゲイの男達は全然違う」との言葉がどういう意味であれマジョリティがマイノリティを撮っている事実が全編つきまとう。この映像作品によって男性同性愛者同士の繋がりができたのも確かだが(登場する伊藤文学の活動はこの制作と重ねられているのかもしれない)、結局のところそうしたことを含むマイノリティが引き受けねばならない数々の矛盾が記録された映画のように私には思われた。

1929年生まれの長谷さんが63年に現代詩手帖賞を受賞した際の「広くはないかもしれないが、自分の土地にしっかり根を下ろしている」というような評が紹介されていたけれど、それこそが、現在の彼が昔を振り返って言う「他に誰がいるかも分からなかったが確実に『いる』と知っていた」ということなのだと思う。それが当事者というものであり、この映画の元となった番組を授業で見た若い学生が「『高齢者のLGBTQ』がいると知らなかった」と感想を述べたという話などを踏まえても、隠されている存在はそうでない人には認識されない(私達はこの学生の言葉から遠いところにいるものではない)。就職しても結婚しない理由を詮索されたりストリップショーを見に連れて行かれたりといたたまれないこと続きで一か所にはとどまれない、「よく聞く」話だが違う話なのだから何度でも聞くべきだ。

「この人と一緒だったらどうだろう」と想像した好みの男性の切り抜きばかりだったベッド脇の壁に番組を見て連絡をくれたボーンさんから送られた写真が貼られ(序盤の「はげた男が好き」からのボーンさんの登場はちょっと可笑しい)、同性愛者の男性とやりとりするのは自分にとって「奇跡」だとの言葉で映画が終わる。もらった手紙には「これからはゲイ友としてよろしくお願いします」とあった。自身が高齢になった時のロールモデルとして長谷さんを尊敬し交流する下の世代の気持ちが痛いほど分かると共に、ロールモデルとして見られる気持ちはどうだろう、それを聞いてほしいと思いながら見ていたので、友との言葉にぐっときた(両者の本当の気持ちは分からないが)。

しかし「長生きしてよかった」なんて、「短く太い人生を駆け抜けた」などと俗に聞くけれど、そんなふうには決して生きられなかった人の言葉をどう聞けばよいのか。かつて切実に望んだものに触れることができたといってもやはり「ようやく」すぎる。長谷さんの詩にあった「よほどの覚悟がないと生き通せない」…私はすぐに「生き延びる」という言葉を選択してしまうけれど、生き延びるでも生き抜くでもなく「生き通す」とは何て意味のある言い方だろうと心に残った。