ボーダー 二つの世界



「虫を食べるなんて気持ち悪い」
「誰が決めた?」
「みんなが決めた」

(以下「ネタバレ」あり)

ティーナ(エバ・メランデル)がコオロギを手に取り触感を楽しみ自然に返す最初の場面と、同様に手に取り我が子に食べさせる最後の場面は、境界線を他者から引かれこそすれ自らの意思では引かずに生きてきた「彼女」が種にとって最も身近な境界線…対象を食糧として扱うか否かのそれを引くようになったことを表している。物語序盤の彼女は生けるもの全てを仲間と捉えそれらに触れようとしているが(「誰かと一緒にいたい」というのもそうだろう)、同じ種のヴォーレ(エーロ・ミロノフ)に出会って変わったのである。しかし彼女には、あるいは物語から私が受けたメッセージには「他者を傷つけない」という厳然たるルールがあり、例えば子どもを保護するか搾取するかの線引きを強者が行う児童ポルノなどもってのほかというわけだ。

両親が実験材料にされるのを目の当たりにしたヴォーレと、「彼」いわく「家や仕事を持ち社会に馴染んでいる」、苛められたり目を背けられたりする一方で隣人に頼られ仕事を任され「疲れてるようだから休んだら」と声を掛けてくれる同僚がおり、車ではいわば仲間による文化である音楽を楽しむティーナとの間にも境界がある。いや、この物語において最も激しくぶつかる、邦題に沿って言えば二つの世界は彼らマイノリティ同士間のそれで、そういう意味では「ビール・ストリートの恋人たち」や「ブラック・クランズマン」にも描かれていた要素の一つに焦点を当てた物語だと取れる。しかしこの物語の中では、衝突の元凶は可能性などでなく確実に観客にある。告発の体裁を取っているようには見えなくとも。

雷を引き寄せる体質である二人が初めて交わるのがその恐怖を共に乗り越えた後と言うのは、居候の留守もあるけれど、いわゆる吊り橋効果のようで可笑しくもある。しかしヴォーレの定期的な肉体的苦痛も彼らの雷の元での恐怖も、彼らがマジョリティである集団においては何らかの対策が取られており軽減が可能なのかもしれないと思う。個である、マイノリティであるということは、蓄積の恩恵を受けられない、少なくとも受けづらいことに繋がるのだ。ティーナのいわばヒモである(他者に対し「利用する者」と「利用しない者」との境界線を引いている)ローランドが食卓において突如マイノリティになる場面からもそのことがちらと窺える。

ところで、映画の終わりに「家と仕事」を自らの意思で手放しているかに見えることからして、ティーナはあの後フィンランドを目指すのだろうか?私にはよく分からなかった。