ラストナイト・イン・ソーホー


エロイーズ(トーマシン・マッケンジー)に祖母ペギー(リタ・トゥシンハム)が「ロンドンは危険だ」と言って聞かせるのには理由があるが、それにしたって降り立つや否や酷い体験をする様は絵に描いたようだ(地方だって同様だと「皆」知っているのに、ここから突然恐怖に付きまとわれるのは奇妙である)。タクシー運転手の「ロンドンは昔も今も変わらない」の何が変わらないって、この映画から汲み取れるのは、人間は見る者によって全く異なる存在となるがそれで害を被るのはマイノリティの側だけということだ。

それを体現しているのがサンディ(アニャ・テイラー=ジョイ)で、エロイーズ(トーマシン・マッケンジー)は夢で見た彼女をクールだと感じ(専門学校で出会ったジョン(マイケル・アジャオ)も絵の彼女への第一声は同じである)言葉遣いや髪型、服装などを真似るが、作中サンディが初めて現れるカフェ・ド・パリに居並ぶ男達は彼女を出された餌のようにしか思っておらず、それゆえこの場面はとんでもなく嫌な空気に満ちている。要するに先の運転手のような奴のせいで「変わらない」わけだ。

マイノリティはマジョリティが自分達をどう見ているか長じるにつれ嫌でも刷り込まれ、それに沿った行動(生存戦略を取ったり無視したり、出来得る限り抵抗したり)をするようになるものだが、作中のエロイーズやサンディにはそれがなく、まるで生まれたてのように見え困惑させられた。あるいはそれを強く刷り込んでくるのが当時のロンドン、というより「都会」なのだと言っているのかもしれない。

(以下「ネタバレ」しています)

この映画が女性に発している一番強いメッセージは「助けを求めてくれ」。エロイーズの母やサンディはそれができず「死ぬ」ことになった。しかしどこの誰へ?女達に作中強く手を差し伸べてくるのは男ばかりで、しかも過去のリンジー(サム・フラクラン)にせよ現在のジョンにせよ初対面時には加害者と区別がつかない(これはまさに現実)。男性に対する「しつこく手を差し伸べ続けろ」というメッセージなんだろうか。一方のエロイーズがジョンに頼れるようになるのは彼女が彼に性的に惹かれたからとも取れ、ここには女の、自身の意思による性の謳歌も託されているのだろうけれど、女は救済と性の相手との一本化によって管理されてきたわけだから、これはやはりよろしくない。

映画はエロイーズが現れる…向こうからこちらにやってくるのを私達が見るのに始まり、彼女のデザインした服を纏った女性が同じようにランウェイに現れるのにほぼ終わる。映画とは「登場人物を見る(のを楽しむ)」ものだけど、扉は中から外に向かって開けるのが怖くも意味があるのであって、外から中を見るのは何か違う。結局のところ全編に渡って女をじろじろ見ている映画だなと思った。エロイーズがミス・コリンズ(ダイアナ・リグ)の元を訪れる時は映像が後者の視点になり、ある日「ああいう女性」が現れるわけだけども、それにしても今振り返ると、ミス・コリンズの「死後」にしか思いを馳せられない。サバイブしてほしかった。