アスファルト



映画の中と外、宇宙と地上に大して距離なんてないのだ、という映画だった。だから劇場を出てふと、映画の中に居るような気持ちになった。冒頭、薄明るい中を登校する少年ジュール(ジュール・ベンシェトリ)の自転車を低い位置から見上げる画がとても優しく心惹かれた。真夜中に出掛ける中年男性スタンコヴィッチ(ギュスタブ・ケルバン)の車椅子を追うのも同様。それらは後に宇宙飛行士の「ジョン・マッケンジー」(マイケル・ピット)が語る「神の目」と逆のようだ。


スタンコヴィッチは自宅のテレビで私の大好きな「マディソン郡の橋」を見る(フランス語の吹替の声が全然合ってなくて可笑しい)。その後、病院に出掛けた帰り、裏の戸口から看護師(バレリア・ブルーニ・テデスキ)が出てくる様子は、あの位置関係、先の映画の「女」にも似ている。彼はつい「男」の職業や目的を拝借してしまう。「ロケハンなの?」「そう、最高の一枚を撮る」。看護師は会ううち、ピンクのカーディガンを着てくるようになる。対してラストの青いコートと、それを脱いでの青いワンピース(形が少々メリル・ストリープのリスペクトにも思われる・笑)


ジャンヌ(イザベル・ユペール)は映画の中にも居る人間、女優である。ジュールと彼女はミルクとウォッカ。「どこにいるか分からないアントワーヌ」と「詩を自分の言葉にしてしまうリリー」。ジュールがジャンヌに「映像を撮ろう、演るのはアグリッピナがいい」と提案し「普通に喋って」と言うのは、机上のメモじゃない「母の声」を聞きたかったからであり、次第に手が震えてくるのは、何の気無しだったかもしれないその試みに心を掴まれたから。この場面がやたら長いのは、その経過を描くため。思えば主人より先に来た荷物と入れ違いの出会いから、スコープ越しの一方的な会話に始まり、彼はずっと、彼女に語り掛けていた。サングラス越しに「(あなたは)私、私、私ばっかり…」と言いながら。


マダム・ハミダ(タサディット・マンディ)との「ここはトイレ(フランス語)」「トイレは分かる、同じだ(英語)」とのやりとりの後にジョンが彼女の息子の部屋に入ると、「ダイ・ハード」のポスターが貼ってある(これのフランス語吹替も聞いてみたくなる・笑)。息子のシャツを着てベッドに横たわると、天井に宇宙のポスター。それこそジュールが言う「不思議な感覚」がここにもありそうだ。マダム・ハミダはジョンのためにせっせと料理をしコーヒーを煎れ、息子の部屋に寝かせるが、前述のジャンヌとジュール然り、どの関係にも、例えば「男と女」「母と息子」などとは言い切れない、曖昧な感じがするところがいい。見ていて気持ちがいい。


これは、鍵を掛けたり開けたりする描写がある類の映画である(ただし自分が中にいる時は掛けない)。陳腐な例えだけど、団地の家々は、それぞれ中身が異なる心のようであり、外から誰かが叩いたりブザーを鳴らしたりすることによって開けられる。自分から外を窺うこともある。そして、相手がもう来ないかもしれなくても、あるいは自分がもう居なくなるかもしれなくても、送り出す時には「また来てね」と言うのだ。