エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命


映画は女に始まり女に終わる。オープニング、使用人の女性アンナ・モリージが逢瀬の相手らしきオーストリアの将校を夜に送り出す。私には彼女が何とも生き生きして見え、この作品においては、その行為の根には、近所の雑貨商の「そのままでは赤子は辺獄(リンボ)におちる、洗礼を施さないとお前に致命的な罰が下る」を恐れたとはいえ生命との素朴な繋がりがあったように思われた。しかしそれは権力者のふるう権力により悲劇の元にされてしまう。ちなみに終盤の裁判においてかつての異端審問官の側の弁護人が「彼女の放蕩さや盗み癖を強調して心象を悪くした」と非難するのはなかなか現代的な…といっても随分前から指摘されていたが…要素に思われた。

父モモロ(ファウスト・ルッソ・アレシ)がローマのユダヤ人教会を訪ねる場面で宗教に無知な私にも話が見えてくる。攫われた息子エドガルドが何不自由なく暮らしていることもモモロの挙げた声がそれこそアメリカにまで波紋を広げていることも却って事を面倒にしているとの言い草に何て矛盾だと思う。しかしそれはボローニャでひっそり暮らす一家の長には縁のなかった、権力者の足元に生きる少数派の処世術なのだろう。一方「訴状が役に立つの」「裁判で息子が取り返せるの」と彼に問う母マリアンナ(バルバラ・ロンキ)はそうした処世術も夫のやり方も実を結ばないと知っており、その違いがそれぞれの面会の場面に表れている。実際事は間に合わず、モモロが「敗訴はしたが大きく前進した」などと言われた後に全てを悟って自らの手で自らを殴る時、エドガルドは三度目の洗礼を受け教皇に命を捧げる兵士となる(ここの編集には圧倒させられる)。

愉快なテーマ曲でもって風刺画が動き出したり寝室に押し入ったユダヤ人に割礼されたりといった夢に悩まされた教皇ピウス6世(パオロ・ピエロボン)は慌ててエドガルドに洗礼を施す。「私は不変で、世界の方が進歩によって破滅する」と口にするもその言動の根に恐怖があることが強調されている。今の日本に生きる私の目で見るとこれは、権力者が人の関心を買おうとする時、あるいは家庭に介入しようとする時、その目的は何なのかという話であった。贔屓やお菓子の甘さを味わい、ゲットーから連れてこられた少年の、良心からの「何でも丸ごと覚えていい子にしていれば帰れる、賢い者勝ちさ」との信条に沿って賢いつもりでいるうちに兵士にさせられ二度と戻れなくなる、取られた命はもう取り戻せないのだと言っていた。