ゴヤの名画と優しい泥棒


映画は主人公ケンプトン・バントン(ジム・ブロードベント)の罪状認否の場面に始まる。あなたは絵を盗んだ罪に問われているが有罪か無罪か、皆が絵を見る機会を奪った罪に問われているが有罪か無罪か。話の主眼は人々が彼のしたことを罪とみなすか否かというところにあって、被告人と息の合っている弁護士ジェレミー・ハッチンソン(マシュー・グード)は検察側の証人に反対尋問などせず、彼がどのような隣人であるかを陪審員始め法廷内の人々、ひいては私達に説くのだった。

まずは1961年のイギリスがどのようなところだったか伝えようとしているのが面白かった。バントン家の暮らすニューカッスルのそこここに溢れる子ども達、働く動物に野良犬、ゴミ収集車、荒れた墓地。スウィンギング・ロンドン前夜のロンドンの様子はボウイがサックスを吹き始めた頃だなと思いながら見た。ケンプトンのパン工場勤務初日にエレベーターに乗り合わせる同僚や息子ジャッキー(フィン・ホワイトヘッド)がナショナル・ギャラリーで声をかける警備員の軽口などは、当時の写真や絵をつついたらこぼれてくる素顔といった感じだ。

予告の「人類?あんたって人は…」というヘレン・ミレンのセリフから、よく聞く「人助けの前に家のトイレの紙が切れたら補充しとけよ」的な夫婦なのかと思っていたんだけど(私はそんな男性と暮らしたことは偶々ないけど)、コイルを抜いてBBCを見られなくしたテレビに証書が貼ってあるなどという間抜けなことになっている、彼女演じる妻ドロシーとケンプトンの分断の理由は、かつて娘を事故で亡くした悲しみについて話し合っていないからなのだった。彼が書いた戯曲につきBBCのドラマ部門は「悲しみの要素がある物語は視聴者に受けない」と言ってよこすが、この映画は人には悲しみを分かち合うことが必要なのだと言っているように私には思われた。

(ちなみにケン・ローチの本によると、彼がBBCに入社した少し後の1964年に労働党が総選挙で勝利し、社会主義者が集まってきて社風が大いに変わったそうなので、ケンプトンの戯曲を読んだのはそれ以前の人達なんだなと思いながら見た。尤もこの映画からは彼にはそちらの才能はなかったとも取れるけども)

メイドとして身を粉にして働くドロシーに雇い主であるゴウリング婦人(アンナ・マックスウェル・マーティン)が「(私は)忙しくて」とは笑ってしまうが、「大丈夫、夫は議員だから」の後の笑いなど彼女の人となりも十分表れている(作中に登場する中で最も権力のある人物は声だけで姿を見せない、こういう描写をする映画がたまにある)。婦人はケンプトンの街頭署名に協力したり裁判の傍聴に訪れて「エルサレム」の口火を切ったりもする。ふとジョージア映画祭で見たサロメ・アレクシ「幸福」におけるイタリアへ稼ぎに出た妻のお喋りから垣間見える雇い主の女性との関係が想起され、階級は異なれどなぜか(と言っておこうか)生じる女性同士の連帯に思いを馳せた。

ゴヤの絵の題材であるウェリントン公爵につき「普通選挙に反対した」ことよりも「ワーテルローで勇敢に戦った」ことの方が取り沙汰される、世の中とはそういうものだ。若い女性記者の「なぜその絵はそんなに高価なんですか」との質問は一笑に付され、「見事だからです」との答えにならない答えしか返ってこない(実際には専門家が話せば何かあるんだろうけども)。ここでの公爵は単に死んだ絵で、しまいにはピーピング・トムになっているんだから可笑しい。