
冒頭、薪を割る巧(大美賀均)に、映画は結局のところ知覚において私の見る夢のようではないと思う。私の夢は映像のはずなのに概念であり姿かたちがない。映画には映像が必要だなんて不自由なものだと奇妙なことを考えてしまった。しかしその後の「やまわさび」からの子ども達の「だるまさんがころんだ」、ドアを閉めて走り出す車と映像があの手この手でいわば色気づきまくるのに、こういう形を取らねばならない映画の尻をまくった姿、という言い方が悪いなら覚悟を決めた姿とでもいうものを感じた。
東京でのオンライン会議を終えてタバコを吸うのに高橋(小坂竜士)が窓を開けると外の音がして内が外と繋がる。映画ではよく得られる感覚だがここではそれは、彼が後に黛(渋谷采郁)との車内では吸うのを遠慮する、しかし巧を手伝って水を運んだ後の車外では何の断りもなく吸うのと合わさって意味深くなる。水挽町へ向かう車内での高橋の「なんかおれ、しっくりきてる」というようなセリフ(作中一番好き)やその後の蕎麦屋でのやりとりからは、彼の存在は、この世界で誰がどこにいたって大したことないじゃないか、どうってことないじゃないかというメッセージに思われた、ただし後でくつがえされるための。
(以下「ネタバレ」しています)
私には花の失踪とその捜索は、誰がどこにいたって大したことない、どうってことないはずなのに人は人がどこにいるかにこだわるものだということの表れに思われた。巧は冒頭の一幕から娘の花の迎えを忘れている。地元の人々の集まりでは羊羹を切ってサーブさせている。高橋と黛を再び迎えた日には彼女のことなど頭にないように彼らと昼食に出かけている。私には彼がその気はなくとも娘を軽んじているように思われた。そのことがばれたから高橋に対しあのような行動に出たのだと思った。この映画はタイトルからして悪のイデア的なものなどない、私達のやることなすこと一つ一つにしか意味はないという話なんだろうけど、私には却って個々の事情のようなものの方が前面に出ていた。