人間の境界


ベラルーシに到着したトルコ航空機内で「ようこそ」と配られる一輪のバラ。オープニングのみ緑に映されていた森を難民達がゆくうち、モノクロの映像に色がつくんじゃないかと何となく思うが、そのうち色がないことに慣れ、もう色なんてつかないと思う。ベラルーシが「人間兵器」としてわざと通した国境を越え、EUだ!ヨーロッパに着いたぞ!と喜んでいたのが、ポーランドにおいて難民達はユリア(マヤ・オスタシェフスカ)いわくの「EUは一体何をしているのか」どころじゃない扱いを受ける。エピローグの「ベラルーシ側でもその優しさがあればね」とは、した方は相手の顔を覚えておらずともされたほうはいつまでも覚えているというやつだ。

シリア人一家のまだ幼い兄と妹は始めのうちは預かった物を失くしたり言い合いをしたり、それが子どもというものだと思うが、そのうちおとなしくなってしまう。粗相に始めは優しく対応していた母親が過酷な日々を経て怒鳴り散らすようになる。一家は祖父以外英語が話せず、支援活動家との道中の休憩のひととき、翻訳アプリのちょっとした間違いに笑いが起きることもある。逆にそれ以外の状況では内容をできる限り正確に伝える必要が常にある、それはとても大変なことだ。ちなみにこの映画は「家族」「国境警備隊」「支援活動家」の章に分かれているが(次第にそれらが交じり合うが)、辛辣なコメディに出来るとしたら政権の下で制服に象徴される力をふるう警備隊のパートだけだろう。

「私は市民プラットフォームに投票してるしデモにも参加する、だけど家族がいる、あなたのように一人じゃない」と難民支援への協力を拒まれたユリアは「私にも死んだ夫がいる、母も犬もいる」と返す。妊娠中の妻と暮らすヤネク(トマシュ・ヴウォソク)が国境警備隊の仕事を多大なストレスにさらされながら何とかこなしている(ベラルーシ側に死体を放り投げたりする)のを見ながら、独り者(に見える存在)を国が恐れ警戒する理由はそういうことかと一瞬思うが、入念な調査を経て制作されたというこの映画は決してそうじゃないと言っている。精神科医であるユリアの患者も、車の修理屋も、家族と話し合った上で一家で難民を支援する。患者の妻のちょっとした「気づかなさ」や活動家に協力するカップルのベッドでのいちゃつきなんてのもいい。そして、それらのどの家でもカーテンが昼夜開け放しなのは、文化なのかもしれないけれど、私には、家と社会が繋がっていることのしるし、アピールに思われた。