ありふれた教室


主人公である教師カーラ(レオニー・ベネシュ)があのような行動に出た切っ掛けというかそうさせた最後のひと押しは、同僚達の「(移民である)アリの両親の職業は何?」「タクシー運転手?信用できる?」といった差別発言への憤り。その場で彼らに抗議すればよかったのに出来ず、結果的に担任クラスの学級委員の女子生徒が言うように「生徒にしわよせがいく」。私も同僚のこうした発言に抗議したことも出来なかったこともある、あるいは自分が発言した側だった可能性もある、だからこのことがまず心に刺さった。

同僚達が「悪人」というわけではない。「問題」の生徒オスカーを転校させるなんてもってのほかと主張するカーラが転校させるのがよいとするカウンセラーにハグを求め、してもらったり、そりが合わずいまだ敬語で話してくる、差別発言もする同僚に、他に手の空いている教員もおらず(そもそも人手不足が問題の大きな根の一つなんである)助けを求めて来てもらう場面などにはほっとさせられる。教員同士の繋がりは重要だから。

朝の教室にて、カーラの指揮でもって行われる、(「手はおひざ~」的に)手を使わせる、教科書やノートを掲げさせる、宿題を出させる、見て回る間に問題をやらせるといったルーティンに、変な言い方だけど小賢しいほど隙がないなと思う。ルーティンを作るのは教師の務めだがそこには常に危険がある(「自主性が大事」との信条とあの行為は相反していると思うでしょう?)。本作の授業の場面は学校とは生徒の善意があって初めて成り立つものだということを明らかにする、実は綱渡りしている足元のもやを消していくように(しかし教員経験者ならこの映画の生徒達はかなり「善意」的だと思うだろう)。

生徒達にじわじわ近付かれる『鳥』ばりのシーン、あのブラウスを着た人物など他にいくらもいるという妄想シーンといったホラーめいた時間を経た翌朝の教室の場面で分かるのは、自分の作ったシステムが機能しないことこそが教師にとっての地獄ということだ。しかしシステムが壊れた時に生徒達は真の顔を見せる。謝罪してほしい、動画についての真実が知りたいなどと訴える顔にはそれまでになかった、大仰な言い方をするなら生命のようなものが現れている。

カーラが教室に内側から鍵をかけることで強制的に、一時的に作った、教師と生徒が「何をするわけでもない」、すなわち冒頭からの、本来の教室ではあり得ない場において彼女とオスカーがひととき解放されるラストシーンには、逆説的に、システムから解放されるああした時間は学校には無いということが描かれている。映画で時折見られる、抑圧を受けたとりわけ子どもが家の中の自室に逃げ込む姿に通じるところがある。この世界ではうちへ閉じこもるしか逃げ場がないという。作中初めて介入する外部(警察)によりオスカーが王のように強制排除されるエンドクレジットにはやけくそな爽快さがあった、「その後」は無いけども。