オールド・フォックス 11歳の選択


冒頭に出る文の、国の経済がいかに個人の生活に影響を及ぼすかとの内容に、いわゆる氷河期世代のうちらはそんなこと痛いほど知っていると思うが、続く「11歳のリャオジエも…」にその年齢こそが作り手にとっては大切なのだと受け取る。1989年が舞台の本作でクリスマスプレゼントを開けたリャオジエ(バイ・ルンイン)が「任天堂!」「ゲームボーイ!」とはしゃぐ(父に幻滅していたのがモノをもらった後は笑顔になっているのがリアルでよい)のに、ホウ・シャオシェンの、制作時である1984年の話となった『冬冬の夏休み』で同じ年頃の冬冬と友人が東京ディズニーランドについて話していたのを思い出した。

「腹黒いキツネ(オールド・フォックス)」と呼ばれるシャ(アキオ・チェン)がリャオジエに教えるのはまず「相手を知ること」(それを端的に表すマジックミラーを久しぶりに見た)。それから同情の絶ち方…のあたりで、今、権力をふるう人々は貧しい人々のことを知っても同情してもいないから、これは今のような権力者が出てくる前の、いや出てきた頃の話なのだと思う。真反対であるシャと父(リウ・グァンティン)は同じ「情のある」世界の住人であり、だからこそ息子のリャオジエはシャの話を理解することができ、父の職場に帰って座ると世界が違って見えるのだ。そして教わった「同情の絶ち方」を、実は作中一番情にすがりついている、目の前のオールド・フォックスに向けて使う。

「お前の父親は負け犬だ」にリャオジエが返す「父さんは違う」とは勝ち負けの概念を否定しているのか負けてはいないと言っているのか分からないが、父と息子の後ろ姿のラストシーンに、冒頭からの丁寧な生活描写が思い出され、共に過ごす時間が父の教えだったんだと分かった。職場にしても、残った料理を仲間に取っておいたりホームレスの人に渡したりする父の姿を直接目にせずともあの場じたいが彼に人の情けを教えている。だから、シャと反対に父が自身の生き方や信条を「説明できない」としても息子は「分かる」。シャにとっても母との暮らし(回想シーンに日本統治時代にて日本語を喋るシーンあり)が、それがどういうふうに効いたにせよ母の教えだったのではないか、だから自宅に肖像画を飾っているのではないかと考えた。