ある少年の告白


ジャレッド(ルーカス・ヘッジズ)の父で牧師のマーシャル(ラッセル・クロウ)の説教において、「この中で完璧じゃない人は?」と問われた母ナンシー(ニコール・キッドマン)含む皆は笑って手を挙げるが、息子の回想の冒頭に置かれたこの場面からは、「人は完璧じゃない」と言いながら世間はある範囲内のそれしか頑なに認めないのだということが悲しいばかりに伝わってくる。

この場面で宣言されているように、この映画において不寛容なのは告発の対象である矯正施設だけではないが、本作からは悪が存在するのは密室の中であり外の世界は善であるといった印象、誤解を恐れずに言えば呑気な印象を不思議と受ける(確かに悪は密室でこそ猛威をふるう、サイクス(ジョエル・エドガートン)の『(治療内容を)外で言うな!』の場面は作中最も異様に映る)。若者(だけではないが、消されようとしている人々)にまずは外へ出てみることを勧めるためとも受け取れる。

同様に若者を救うために外へ出ていくよう勧めていた「サタデーナイト・チャーチ」では、自身を否定された少年がいったん部屋に閉じこもるも思い立って外へ出て行く姿が印象的だったものだけど、本作のジャレットは自室に閉じこもる。これはあの時にはもう彼の中に揺るぎない信念があり、どこにいようと自由だからである。

この外部の軽やかさとでもいうものは、息子が息できるよう外とを繋いでいる空気穴のような、彼を支えやがては共闘相手ともなる母の存在ゆえかもしれない。ダイナーで紙を見せられた時の何これ、と可笑しいのをこらえているような表情、常に少し物事を面白がっているような、同時に優しさと冷静さとを伴った態度に私もほっとさせられる。それは彼女が立ち上がるまで、「長老たち」の足元で飼い慣らされていたのであるが。

「走る車の窓から手を出して自由を感じる」描写にはいいかげん食傷気味だが、本作では何度も繰り返されたそれが最後に母のいわば自虐ギャグとして機能する。子を解放してやることができたからこそ、ほら!(危なかったでしょ)と言えるというわけだ(ラストシーンまで引っ張るのはどうかと思うけれども)。「根拠がなくても危ない(かもしれない)と思うことを親は子にさせたくない」という母子のやりとりは、最後の父と息子の会話とは異なり信頼の上のステージでこそ成立するものだ。

この映画では女性がいわば風穴となっている。「あなたのご両親は間違っている、あなたはもう18歳なのだから選択の自由がある」と話す女性医師(チェリー・ジョーンズ)の「私は医学と信仰を手にしているが、これらのバランスを取るのは難しい/人は自分の望む情報しか欲しがらない」とは何とも強烈な言葉ではないか。思えばジャレッドがグザヴィエと出会う「神vs.科学」しかり、本作にはこの問題が何度か提示されている。それに真っ向から挑んでいないやつこそ憎むべき相手なのだ。