大統領の執事の涙



1950年代から80年代にかけて7人のアメリカ大統領に仕えた黒人執事の実話を元に制作。端正な映画、楽しく見た。


主人公のセシル(フォレスト・ウィテカー)が終盤にいわく「変化を怖れていたが、もう変わるのが怖くない」。「変わらなかった」者じゃなく、「変わった」者の話だった。そりゃそっか、オバマが大統領になったからこその「映画化」なんだろうし。
作中、女性の共和党員(有名な人物なんだろうか?)がレーガンアラン・リックマン!笑)に「常に正しい方に付くべき」と意見する場面に、それじゃあ女性が大統領になったらどんな映画がありうるかな、などと考えた。もっとも本作には幼少時のキャロライン・ケネディが出てくるから、それに近い楽しみが既にあるとも言える。
それにしても、冒頭に語られる「執事の心得」…「相手の欲するところを察する」「相手を怯えさせない」等が、女性へ向けられる要求に似通ってるのには、そうだよなあ、こういうのって対価無しに暗に強制するもんじゃないよなあ、と思ってしまった。初めて「客」となったセシルが、同僚達の「白人向けの顔」に受けるショックだって、程度の差こそあれ、女友達は男の前じゃこんなふうに振る舞ってるのか、という感覚に通じる(笑・私だってそう思われるかもね)


冒頭のナレーションに「家族は一緒に住まなければ」とある。綿花畑で奴隷の両親を「殺され」、逃げてきたセシルの言だ。彼が妻のグロリア(オプラ・ウィンフリー)と築いた家庭の場面は大抵が夜で、流行もあるのか、常に暖色にも程があるという位の暖かい灯りに包まれている。しかしその内実は、誰のせいというわけでもなく、愛し合ってもいるのに、どこかぎくしゃくしている。「家庭」と「社会」において追求したいものが相反するから、それこそ作中テレンス・ハワードが手振りでしてみせるようなすれ違いが生まれる。そんな家族が真に「一緒」になるまでの物語として、面白いなと思った。
終盤、セシルの辞意を「直接」聞いたレーガンは「家族のように思っていたのに」と惜しむが、セシルが職を辞す…「変わる」決意をしたのは、「家族」を失うまいとしてのことだった。全ての根っこに「家族」があった。


セシルは「私と息子は別々の世界に住んでおります、ただ無事であれと願っています」と口にするが、父と息子は、別々に居ながら常に繋がっている。
本作で最も盛り上がるのは、セシルがホワイトハウスのパーティで要人達の椅子を引いて給仕をする場面と、息子のルイスがカフェで「白人専用席」に座るという抵抗運動をする場面とが交互に描かれるところである。キング牧師の(作中の)言によれば、セシルたち黒人執事は「黒人の紋切り型のイメージを変えた、我知らぬ戦士」なのだから、これは親子が同時に「闘って」いる場面だ。人によって差別への対処の仕方が異なるのは当たり前で、セシルの方の感覚は、冒頭に手際良く描かれる彼の半生で「分かる」ようになっている。「ホテルの仕事は農園よりずっと楽だ」と感じた彼は、「息子に綿花畑は決して見せたくない」と思う。


私にとっては、妻グロリアの物語でもあった。多忙で留守がちの夫にケネディ夫人の靴の数を訊ねるもすげなくされ、口紅をひきながらむくれるのは、彼女が「大統領」でもないのにその妻というだけで自分の夫を使っているから…というのは考えすぎかな(笑)ともあれ「仲直り」の後、ベッドで再び同じ質問をするのがいい(今度は夫もきちんと答えられる)。
時間の流れだけを軽く追うと、本作は、グロリアの「ホワイトハウスへ行ってみたい」という「夢」が実現するまでの話でもある。ナンシー・レーガンジェーン・フォンダ!)がセシルに晩餐会への招待の旨を告げ、「グロリアと言うんでしょ?」と彼女の名を口にして去ってゆく後ろ姿が印象的に撮られている。当日のグロリアが食器の使い方に戸惑い、派手なドレスの胸元から飛び出る裏地?を気にする描写なども絶妙だ。
セシル夫婦と、ルイスとそのガールフレンドとの対比も面白い。ルイス達は出会いこそ憧れちゃうほどかっこいいけど、初日から「政治」活動に参加する二人の間の溝は日々大きくなる。一方、政治に「直接」は関わらず「やれること」をするセシル夫婦は、いつまでも寄り添って暮らす。もっとも夫と息子の戦闘の後ろで、妻であり母である彼女が崩壊をせき止めていたとも言えるけど。


レニー・クラヴィッツはあごが無くなりかけてたけど、リー監督の映画じゃ「プレシャス」に続いてセクシー担当、というかいい男の役。登場時、靴下留めを見せての下半身脱ぎが可愛い(笑)彼をはじめ「黒人」の役者さん達、誰もがとてもいい顔をしていた。