グロリアの青春



チリのサンティアゴ。グロリア(パウリーナ・ガルシア)は離婚経験者、子ども達も独立しての一人暮らし。出会いを求めてダンスホールに通う中、意気投合したロドルフォ(ドクター中松似)と一夜を共にし、付き合うようになる。


その場に流れている曲以外の音楽は殆ど無く、ただただ、グロリアが色々なことをする場面が次々と映し出される。見る側の自由が尊重されている映画で、私はこういうの、好きだなあ。淡々とした展開の中、終盤のホテルのレストランでの一幕、あの高揚、高揚と言っていいのか分からないけど、はじけ切ってしまった不穏な感じ、とてもよかった。のけぞってのキスが多いのも好み。
そしてグロリアの顔が素晴らしい。いつまでも見ていたいし、ああいう人のそばにいたいと思う。家政婦の「ノアの方舟」の話を聞く時の呆れたような顔、車に掃除機を掛ける時の気の抜けた顔、文句を言うため歩いて行く時の意を決した顔、一番チャーミングなのは、冒頭ロドルフォと出会った時、彼と付き合い始めた頃の顔。ああいう顔になるために、彼女は「男」を欲しているのかなと思う。でもラストシーンの彼女には、更に進んだ美しさがある。


グロリアは息子の家での集まりに「パートナー」としてロドルフォを連れて行く。そこには息子と孫の他、妊娠中の娘や元夫や今の妻が居る。狭いテーブルに皆が着く時、ロドルフォが見切れて心配になる。お酒も入り時間が深くなると、グロリアは元夫との結婚式や子ども達の小さい頃の写真を見て盛り上がり、ロドルフォは蚊帳の外。案の定、このことが原因で二人の間には亀裂が入る。
こういう場面の数々に、もっと気を遣わなきゃ、なんでそんなことするの、なんて思えるのが楽しい。だって大抵の映画じゃ、女の登場人物はよく出来てて、こんなふうに文句付けられないもの(笑)それに最近の「女性」映画は、男なんて要らないって方向の内容が多くて、どんな人がいたっていいけど、私はそうじゃないから、男好きの話の方が面白い。元が違うからあんな美人にはなれないけど(笑)あの年齢より十歳、二十歳上になっても、男性に傍に居て欲しい。


緑内障と診断されたグロリアが目薬をさす場面が何度も挿入される。昔、中野翠が「ロザリンとライオン」について、若ければ手ぶらで男と旅に出られる、と書いていたのを思い出す。年を取れば取るほど(年齢には関係ないことも多いけど)、メイク道具どころじゃなく、持たなきゃならないものが増える。ロドルフォの「守りたい、築いてきたもの」だってその一環じゃないかと思う。付き合うっていうのは、相手のそれを認めたり一緒に持ったり出来るか否かってことかもしれない。出来なきゃ無理することもない。
何十年長く生きたからって人間「完全」になるわけじゃなし、若い頃と同じことをする、しようとするけど、荷物が増えてるから昔とは違うふうになる。それがその時なりの「青春」。そう考えたら、邦題だって悪くない。


終盤のパーティにおいて、グロリアは何かに導かれるようにして「あるもの」を見る、というか遭遇する。この場面に、映画の「意図」は多分違うんだろうけど、日頃思っていることを突き付けられ、励まされた気がした。それは、性を求める時、人は一人だってこと。例えば性行為だって、何をいやらしいと思うか一致していない相手と一緒にするものだ。考えたら変だけど当たり前でもある。
もっと若い頃は特に、年長の男性らにつきまとわれて神経をすり減らした身としては(そんな女性たくさんいるよね)、この映画に出てくるのは男も女も「大人」だなあ!と思う。同年代の、求め合う相手にしかアピールしない、しつこくしないもの。ここに切り取られてるような世の中ならいいのにと思う。ああいう人達のことを「大人げない」と言うのは、彼ら同士の関係性のことを考慮せず何を見てるんだろう?