おじいちゃんの里帰り



映画の魅力にあふれた映画、とても面白かった。
終盤「ペコロスの母に会いに行く」(感想)と同じこと、正確には同じじゃないけど似たようなことが起こる。孫が家族の物語を聞き、彼らの過去を「共有」する。トルコならではなのか、ペコロスより描写がくどい、というか奔放(笑・私は全般に渡ってこちらの映画の方が好きだけど)


(以下「ネタバレ」あり)


映画の語り手は「おじいちゃん」の孫である大学生のチャナン。話は「(ピルを飲んでいるのに←このエクスキューズは重要だよね)恋人との子を妊娠してしまった」彼女と、「自分はドイツ人なのかトルコ人なのか」という疑問を抱いた、同じく孫のチェンクの「問題」から始まる。実際は祖父母も帰化に対する考えの違いに直面しているし、伯父達も「問題」を抱えている。作中それらは家族とのやりとりを切っ掛けに解消に向かう。
最後にスクリーンに提示されるのは「労働者を呼んだが、やって来たのは人間だった」というマックス・フリッシュの言葉。トルコ人のおじいちゃんが60年代にドイツに渡ってからの暮らしぶり、例えば帰省するのに飛行機代が出せず車で三日三晩掛かる等のくだりで当時のニュース映像が挿入されるのに、作中の彼はそうした人々の「代表」として描かれてもいるのだと思う。「移民」代表としてメルケル首相の前でのスピーチを依頼されるのも尤もなのだ。


おじいちゃん一族の「現在」と、チャナンがチェンクに語る彼らの「過去」とが交互に描かれる。チャナンだってその「物語」の元を母から、あるいは祖母から聞いたのだろう。
ドイツ政府が外国人労働者を募るくだりは「ドイツからのお知らせ」なんて可愛らしい描写になり、祖父母の馴れ初めについて「『辱め』って何?エッチなこと?」とチェンクが口を挟むと、物語内の祖父母がこちらを向いて首を振る(笑)実際にはそれらの「裏」にも、もっと言えば「今」だってしんどい状況があるだろうに、「過去」の全てがこうしたコメディタッチで描かれるのには、作中の聞き手が6歳の甥っ子だからというだけじゃない意思を感じる。「現実」はフィクションに引きずられることもある、いや引きずられるものだから、現実を「よく」するためにもこういうコメディって必要だと思う。また「物語」じゃなく「死」を語る場面は、チェンクと父とが実際に会話する様子であるのも印象的だった。


「家族」とは、家族じゃない者同士が「結び付く」ことにより形成されるものである。作中、結び付いて久しいパートと、今まさに結び付こうとしているパートとがあるのが面白い。三男は、おじいちゃんの埋葬に関するトラブルが発生した際、ドイツ人の妻に「(息子の)チェンクと一緒に先に帰ってくれ」と言うが、「私もお葬式に出る」と返され作中一番ってくらいの笑顔を見せる。一方チャナンは、妊娠している彼女を気遣う恋人に同行したいと言われても「あなたは家族じゃない、家族には歴史が必要だもの」と反論し一人で発つ。まだ若い彼女にとって「家族」とは「既に在る」もので、自分で作るという感覚が無いのかもしれない。エンドクレジットでは二人が「ペア」で紹介されてたから、映画としては、彼らは「家族」になるんだと思う。
おばあちゃん、お母さん、(語り手の)孫の女三人がホテルの一室に居る場面では、孫が語る「物語」の裏にあった、とある真実が明かされる。このように、先に見たものをまた見たくなる、反芻しちゃうような作りがうまい。おっさん二人がにやにやしながら布団を取り合うシーンにじんとしちゃうんだから(笑)


大家族の面々には色々な「違い」がある。ドイツ語が話せないまま肉体労働に就いたおじいちゃん、いきなり連れて来られたおばあちゃん、学校に通って喋れるようになる子ども達、またその子ども達、と言語の習得具合も様々だ。外国人が多い地区の小学校に勤めてる知人に、日本語がまだ流暢でない親と教員との間の通訳を子どもがすると聞くけど、本作にはまさにその通りの場面がある(教員じゃなく医者相手だけど)。チェンクが(物語の中に)聞く祖母の父と祖父とのやりとりのトルコ語、おじいちゃんがドイツに着いてすぐ聞く演説のドイツ語などに字幕が無いのが適切で楽しい。
一家にとって「初めてのドイツ人」である三男はドイツ人の妻よりもトルコ料理が苦手、「現地」じゃ「道端の店」に文句を言いつつもその美味しさに思わず頬張るが、体が付いていかない、というのも可笑しい。加えて、この場面で妻が息子のチェンクに「トルコ語、話せるんだから話しなさい」としきりに言うのには、彼女の立場のあれこれが詰まっているように思われる。


日本に生まれ育ち大した移動もせずに済んでいる私からしたら、彼らは「スーツケース」に強い縁のある者達だ。おばあちゃんは「過去」でも「現在」でもスーツケースをおみやげでぱんぱんにし、おじいちゃんに閉めてもらう。チェンクもおそらく初めてのスーツケースに、おもちゃやら何やらを詰め込む。一方、二男の鞄は常にすっきりと閉まっており、中身が見えない。そのことと、彼の最後の「決断」とは何だか自然に結び付いた。