未来は私たちのもの/ベルリン・アレクサンダープラッツ

ドイツ映画祭2021にて観賞。


▼「未来は私たちのもの」は2020年ドイツ制作、ファラズ・シャリアット監督。イラン系移民の両親を持つ青年パーヴィス(ベンヤミン・ラジャイブプル)がイランからやってきた難民の姉弟と出会う物語。

監督自身のものだという、セーラームーン姿の男の子が歌い踊るホームビデオのオープニングからは、この人物(場面変わって主人公パーヴィスだと分かる)がこの衣装を買ってもらったこと、こうして映像を撮ってもらったことが分かる。後のホームパーティの場面からは、一族がドイツで安定した暮らしをしていることが分かる。特に冒頭の映像は、後で心に効いてくる。パーヴィスの母とバナフシェの母が、イランから来た当事者としていわば時を越えて語らう場面で不意に思い出されてならなくなる。この映画には、世に存在しているのだから既に描かれていそうだけども描かれていなかったことが詰まっているけれど、この場面がまずその一つだ。

パーヴィスが恋するアモンの作中最後のセリフは「ぼくのことを見て」。彼らが物語の、いや物語がどうとかじゃない、ずっと前からずっと先までされるのはそれとは真逆のことである。冒頭パーヴィスがセックスした相手に「君はどこから来たの」(「ぼくは毛むくじゃらの外国人は苦手なんだ、ギリシャ人やトルコ人みたいな、君は違うけどね」)と言われるのを始め、多数派じゃない限りつきまとい続ける、彼らを分断もする属性に対する評価の数々。パーヴィスが奉仕活動で出向いた施設で難民のふりをする場面も、大変「分かる」けれども映画で見てこなかった類のものである。

前半に二度あるパーティの場面を見ながら昔のことを思い出した、というより当時も意識しなかったことがふと頭に浮かんだ。パーティとは集まる手立てであり、とりあえずの居場所となり得るが、その後にだらだらしたり一緒に帰ったりする相手こそが自分にとって特別なんだって。別に「恋」が関わっていなくても。


▼「ベルリン・アレクサンダープラッツ」は2020年ドイツ・オランダ制作、ブルハン・クルバニ監督。原作小説は未読、ファスビンダー版ドラマは記憶がおぼろげ。

初対面の「白人」に問われる「どこの国の人?」、愛する人に言われる「あなたの全てを見ている」、「未来は私たちのもの」と「ベルリン・アレクサンダープラッツ」はほぼ同じセリフが柱となっている(=移民・難民の人々にとってこれらの言葉には大きな意味があり得る)。しかしラインホルト(アルブレヒト・シュッフ)のせいで全てがずれ込んでくる。彼がフランシス(ヴェルカー・ブンゲ)に国を聞くのは下働きを探しているからだし、フランシスはラインホルトとのあれこれを「自分の全て」に含めたくないと考えているからだ。フランシス(フランツ)の出自を変えたとて変わらないこのラインホルトによる様々なドラマがあまり活きていないようで勿体なく思われた。

フランシスはラインホルトによってドイツの名前のフランツと名付け直される。後に知り合ったミーツェ(イェラ・ハーゼ)が売春に出かける前、仕事に使っている名前の「キティ」はこんな女、こんな女と話す場面で、二人は別の名前を持たざるを得ない存在なのだと分かる。二人が、名前を直接的に奪ったわけではないが彼女らを人とは思っていない男の元へシンプルな殴り込みに行く場面が作中一番好きだ。そして最後の「お前のアリバイを証明するのは…」の、苦笑するしかない「オチ」。別の名前で生きている者同士の互助は成り立たないとでもいうような、どうしろというんだとでもいうような、あそこが映画の一番深い穴だったと思う。