ニュートン・ナイト 自由の旗をかかげた男



映画の終わり、実際のニュートン・ナイトと息子の写真に監督の名前が大きく出て、そっかゲイリー・ロスかと思う。この実直な作り、私は好きだなあ。
直近作「ハンガー・ゲーム」(一作目)は彼にとってティーンものとしての側面が大きかったろうけど、私には少しだけ通じるところがあるように思われた。まずは本作のフッド将軍(トーマス・フランシス・マーフィー)が、遠目だと「ハンガー・ゲーム」のスノー大統領役のサザーランドに似ている(笑)尤もニュートンマシュー・マコノヒー)が彼の首を絞めて殺すのは物語の「クライマックス」でも何でもなく、その死体が南軍本部の机に置かれている場面で実感できるように、「この世に『ラスボス』はいない」というのが大人の知るべき現実だけども。


オープニング、静寂の中に(というのは「沈黙」が過剰にもそうだったように虫の音がするということである)歩兵隊の足音が聞こえ始める。そこからの前線描写は鮮烈だ。弾が当たった者が負傷し、他の者は死体を踏み越えて進む。洗ってもピンクより白には近付かない包帯、同様にもう赤色にしか見えない木の床。仲間いわく「負傷者を運んでいるだけ」の衛生兵として一日を終えたニュートンが腰を下ろし酒を取り出す時、そんなものや他愛ないお喋りでは持ちこたえられないところまで来ていると思う。後に負傷した甥を抱えた彼が軍隊と逆行する場面では、あまりの「無意味さ」にもう、眩暈がする。
ニュートンは(妙な言い方だけども)たまたま南北戦争に参加したことで、その戦争ではない闘い、すなわち貧乏人が「使い捨て」されないための闘いが必要だと思い至る。しかし金持ちの得にならないそうした闘いは「戦争」にはならない。終盤、彼にはまだ闘う必要があるのに、仲間に「戦争は終わった」と言われて肩を落とす姿が悲しい。


冒頭、病気になった我が子に妻セリーナ(ケリー・ラッセル)が「泣かないで」と声を掛けると、ニュートンは「熱があるから泣くんだ」と言う。この言葉は彼の思想を表しているように思われる。赤ん坊には泣くことしか出来なくとも、成長すれば自分を主張するために声を出すことも銃を持つことも出来る、そうすべきなのだと。後に制定する「ジョーンズ自由州4原則」の三番目が「自分が作った物を他者に搾取されるな」であることからも分かる。これは、自分の投じた票が破棄されると分かっていても銃を手に投票に向かう、そこまでしても、生まれ持った権利を、法がしてくれなければ神に依って自分で守るという話なのである。
ちなみにこの映画の銃撃戦は大変見応えがある(そう何度もあるいは長々とあるわけではないけれど)。特に「女が銃を撃つ」のが、困ったことにとてもかっこよく撮られている(そもそも女が銃を撃つとかっこよく見えるのは何故なのか?)


奴隷のレイチェル(ググ・バサ=ロー)が主人から受ける「レイプ」の描き方も良かった。「戦争」の描写がいいという時、それが「被害」を表すように、「レイプ」の描写がいいとはその「被害」を表す。
でももしかして、性的被害に遭ったことが無い人には、直接的な表現が無いと「分かりづらい」のだろうか?「そっちの方が楽だから(easier)」とは「死んだ方が楽だから」の「楽」に近いということが、彼女がある時それを拒否したのはニュートンが好きになったから(なんてアホみたいな理由)ではないということが分かるだろうか。「私は聖書がもう読めます、ここにあります、神は言った、光あれと」。「寝具」とは柔らかいものなのだと初めて知り流れた涙の辛さと、肩に置かれる手の温かさが、私には伝わってきた。


冒頭から時折、「85年後」にニュートンの子孫の男性が裁判所の被告人席で裁かれている場面が挿入される。「母親が誰かが問題なのです」の後にセリーナとレイチェルの二人が共に子を育てている場面に切り替わると、論じられている事柄の馬鹿馬鹿しさが否が応にも伝わってくる。
物語の最後には、息子の将来のため北部に移住しようと言うレイチェルに「ここが住みかだ」と返し、壊された教会を自らの手で直すニュートンの姿と、「北部なら結婚できるかな」と言いながらも「自分は無実だ」と主張しミシシッピ州実刑を受ける子孫の男性の姿とが描かれる。私には、投票への行進で歌われていた「彼は死んだがその魂は前進する」を表しているように思われた。その裁判の内容や白人男性ばかりの陪審員席、21世紀に入っても(色々な法が整備されて遠くまで来ても)起こるあれこれ、今前進するのは生きている者なのだ。



観賞したヒューマントラストシネマ渋谷にて、公開記念メニュー「マシュー・マコーヒー」を注文。マシュマロ入り、ステッカー付き。美味しく頂いた(笑)