クレイジー・リッチ!



小説「クレイジー・リッチ・アジアンズ」は話が面白いわけじゃなく、いわば「映画に出来ない」要素が肝。本作は映画にしか出来ない、生身の人間の愛らしさ、ベタベタだけどベタじゃない選曲、ロマコメを躍動させるセリフなど考えうる全ての領域で頑張っていたけれど、やはり少々物足りなかった。ミシェル・ヨー演じる、息子が出た時のままに部屋を保つ(いわく「行動し続けなければ伝統は絶える」…「そのまま」であるためには放っておいてはいけないのだ)母エレノアは素晴らしかったけれど、映画化において彼女を際立たせたことで却って私には見事な裏方に映った。私がアジア人の中に暮らすアジア人だからなのか、小説を読んでも映画を見てもアストリッドが主役のように思われた。資産や浮気がどうとかじゃ全然なく、心に寄り添ってしまうのは彼女だった。


パーティの浜辺でのアストリッド(ジェンマ・チャン)とのやりとりの場面で、主人公レイチェル(コンスタンス・ウー)の顔を初めてしっかりと見た気がした。この物語には「(外側は「黄色」だが中味は「白」の)バナナ」というある文化に特有のテーマと、もう一つ、文化の差があっても話し合うことは大切だというより普遍的なテーマがある(どちらも「アジア系で主要キャストが占められたメジャースタジオ配給作品」の前例「ジョイ・ラック・クラブ」にも見られる)。レイチェルとアストリッドは共に愛する人に対し真摯だが、この場面は話す女と話さない女の対比である。


アラミンタ(ソノヤ・ミズノ)のバチェロレッテ・パーティーで苦汁を舐めさせられたレイチェルは、ニック(ヘンリー・ゴールディング)に「彼女達に何をされても構わない、あなたが本当のことを言ってくれなかったのが問題」と伝え(彼の「これからは二人で戦う」に対し)「あの死骸は気持ち悪かった、でも埋めた」と返すが、エレノアから「あなたには無理」と宣言されたことは口にできず、女友達ペク・リン(オークワフィナ)を頼る。その後のアラミンタの結婚式への準備と式の始まりのカットバック…じゃないな、それらが交互に進んでゆくあのうねりは、レイチェルが塞いだ気持ちの反動、文化の差を乗り越えるエネルギーである。同じ頃アストリッドは夫に本心を告げ、式場で女二人は一時手と手を触れ合わせる。


レイチェルは登場シーンから知性を発揮し、恋人のニックはその登場時にはただうっとりとそんな彼女を見つめる。作中やけに目立っていた美丈夫二人の裸は、これまでメジャーなところではあまりなされなかったアジア系男性の性的魅力のアピールともとれるし、監督のジョン・チュウは「ジャスティン・ビーバー ネヴァー・セイ・ネヴァー」でジャスティンの髪振りを撮った人だからというふうにもとれる(笑)見た目と言えばレイチェルの格好が子どもっぽいのもポイントで(アラミンタの「もしかしてGAP風?」がいい・笑)知性とは勿論、そんなことには一切関係がないのだ。