異人たち


アンドリュー・ヘイの、『ウィークエンド』(2011)は他者の匂いを欲しつつ自分だけの領域だった家に他人を入れる話、『さざなみ』(2015)は長年暮らした家が変わってしまいもう戻れない話、『荒野にて』(2017)はハグしてもらえる居場所を求めて旅をする話であった。本作の主人公アダム(アンドリュー・スコット)はロンドンの街中のタワーマンションに住み「郊外、1987年」が舞台の脚本を書いている…そこに囚われている。「友達はみな郊外で結婚して子どもを育ててる」の友達とは実在するのだろうか?12歳までを両親と過ごした、自分を受け入れてくれなかったその場所に、ハリー(ポール・メスカル)の訪問を受けた翌日、ふと出かけてみる。自分の方から会いに行けば会うことができる。このことはクィアであるヘイやアンドリュー・スコットだから語る権利があるのだと思った。

自分から親という他人の家へ行った後にはポールという他人を家に入れることができるようになる。「カミングアウト」の後にはポールと「一緒に」「外の世界へ」出ることだってできるようになる。母(クレア・フォイ)の「彼女はいないの?」に始まる慣れた苦痛に自分はゲイだと告白するも、男同士で結婚なんて不自然だなどと言われ、涙目でなぜだかこっちが、注いだ紅茶を流しに捨ててしまう彼女にごめんと謝るはめになる(後で彼女は「なぜいつも謝るの?」と言ってくれる)。母はあなたはいつも逃げ出してた、そのときに怪我をしたと彼の手を握る。父(ジェイミー・ベル)も「おれが子どもなら一緒になってお前をいじめてた」と言いながら抱きしめてもいいか?と固くハグする。アダムの言うところの「仲直りなんてしなくていいんだ、一緒にいれば、それだけで」という愛がそこにある。『ウィークエンド』終盤の、ゲイ同士だけど全然違う二人の抱擁からヘイの映画にはずっとこの暖かさが流れている。人恋しさを人肌で解消することの肯定。なぜなら人は皆一人で、皆寂しいから。解消できなくなった時それは孤独の恐怖に変わり、人から未来を奪うから。

(以下「ネタバレ」しています)

映画の終わり、これは生き延びてきたクィアと生き延びようとしていたクィアの物語だったと分かる。アダムが両親を失い、以降は孤独に生きることになった1987年とは母が言う「あの怖い病気は?」、彼がポールに言う「昔はセックスの先に死があった」時代であった。「遠い昔のことなのに今でも鮮やかに蘇る」には実感がある。おそらくヘイやアンドリュー・スコットのそれも込められている。彼は母に「今はもう差別はない」「寂しさとゲイであることは関係ない」と何度も繰り返す。しかしそれらは「そうでなければならない」ことであって実際はまだそうでない。消えようとする両親への切実な「まだ時間が足りない」に母は「足りる時なんてこない」と返すが、自分の拒絶の後に命を絶ったポールのために、アダムは「時間が足りる」を実現させる。こんな離れ業があったとはと涙が出てしまった。このラストシーンは私には、世の中には取返しのつかないことが実際幾つもある、死ぬな、というメッセージのようにも思われた。