美しい夏


イタリア映画祭にて観賞、2023年ジネヴラ・エルカン監督作品。

映画は主人公ジーニア(イーレ・ヤラ・ヴィアネッロ)がすてきなブラウスとスカートを脱いでお針子の制服に着替える朝に始まる。映画の終わりには、この制服が、終盤ある大人の女性が口にするように「女性には知性が必要」だが「若者は過ちをおかす」ものだからと女の世界で女が女を守るための備えに思われた。
慣れた様子で服を脱ぎ水に飛び込み岸まで泳いでくるアメリア(デヴァ・カッセル)は一見ジーニアと真逆の存在であり、実際彼女を知る男は、女でさえも、「世界が違う」と言うが、二人が通じ合っていることは、「笑顔と引き換えに奢る」との店員を拒否したジーニアのお代をアメリアが払うところに表れている(ここで後者の方が随分背が高いと分かり、後のある場面では階段によって二人が並ぶのが面白い)。そうでなくても見ている私が、どちらにも自分が居ると感じる。

裸のアメリアの絵を見るジーニアは画家の男達を挟んで彼女と相対している。彼女は鏡や浴槽で自身の体を確認するが、アメリアに直接それを投げ出すことには思い至らない。男の存在なしに女の体は発現できない、女と女が直接繋がることはできないと思い込まされているようだ。
男を利用して遊ぶアメリアにジーニアが戸惑う場面は最近では『七月と安生』(2016)とリメイク作『ソウルメイト』(2023)も思い出すが、実際昔も今も女は男がいなければ生きていけないシステムの中に生かされている。モデルの他にそうそう稼げる仕事もなかろうし、どうせ搾取されるなら金銭という形で代償を払ってもらおうと考える者もいるだろうし(昔の私のこと)、文化と出会わせてくれる真夜中のピクニックだって男がいなければできないだろう(それに対するのが最初と最後の兄や仲間との川遊びである)。

ジーニアの男との初めてのセックスがかなりの時間をかけて描写される。彼女が相手を求めることはなく、やがて世界から音が消え、事後には描きかけの絵に戻る男のこちらで彼女はベッドに一人、壁の虫にふと共感でもしたのか手を伸ばす(のが、映画の終わりには空をとびゆく鳥達を見る)。
このことが密室で、しかし女なら誰もが…少なくとも多くが…知っているやり方で行われるのと対照的に、ジーニアとアメリアが互いを求め合うダンスは男に鞄を持たせて衆人の中でなされる。1938年のその後は分からないとはいえ、あるいはそうだからなのか、映画がタイトル『La bella estate(美しい夏)』に、すなわち幸せの中に終わるのも含め、男性の同性愛者ではなくレズビアンの物語であることをかなり意識した作品に思われた。原作であるチェーザレパヴェーゼの小説はどういうものなんだろう。