13回の新月のある年に/第三世代


ユーロスペースにて二本続けて観賞。いい組み合わせだった。ファスビンダーの映画を見ると、センチメンタルであることや俗っぽいことは全然つまらなくないと思う。実は何を見てもそう思うんだけれども。



▼「誰かの長話に誰かが飽きる」という件につき、ZAZ育ちの私は何を見ても「フライングハイ」に返ってしまうが(「映画史」的に立ち返るべき場所が違うとしても)、「13回の新月のある年に」(1978)こそは長話の映画である。死んだ牛の吹き替えにも聞こえてくる主人公エルヴィラの語り、彼女が耐えられず倒れてしまうシスターの当の彼女についての語り、映画にしなきゃ在ったことにならない。映画はエルヴィラが自らを語った音声と彼女を好いてはいるが諸々の事情で話を真に聞くことの出来なかった者達の中で一人、彼女が死んでいるところを覗いて終わる。


エルヴィラが「自分で買って家具も揃えた」部屋での場面が素晴らしい。家を出て行こうと荷物をまとめる男を下から捉えた画、「彼は私を絶対に傷つけない」と断言する様がなぜか猛烈に性的に見えるエルヴィラがイレーネを抱く微動だにしない背中の画、そして終盤、寝て起きただけの、酒を飲むこともないので「太ったな」とは言われまい痩せっぽちな女と、エルヴィラにかつて「君が女だったら」と言った男とがあっさりくっつく、手の届かない「外」が彼女の部屋に侵入してくるあの場面。


▼冒頭「父親」により、「我々はニーチェやカントなど明るい哲学に親しんだが今の若者は否定的な哲学にはまる、ショーペンハウアーとか」と「第三世代」(1979)にういて語られる。ショーペンハウアー。後に生まれ年含む偽のプロフィールを唱える場面が素敵だ。椅子に女が座っていたのを男が取って代わる、たったそれだけのことが何とも言えず不穏に感じられる。首相の言葉を引いた文は、男子トイレ、男子トイレ、男子トイレに流れる。女の性器は男の性器を休めるのみ、あるいはトルコ人はくそ、出て行け、ナチスはくそ、今度はお前の番だ。


オープニング、映画について「子どもに与えるメルヘンにも似た/死に至るまでの生を耐える者達へ」との文が示され、コンピュータというよりその者達の鼓動だろうか、といったリズムが文字によって奏でられる。私には、「果て」たギュンター・カウフマンとその下から這い出る女を捉えたあの場面だけが真実に見えた。「死に至るまでの生を耐える者」のための映画なら、死んでも生きてもいないあそこにあるに違いない、セリフ通りの「嘘の中にある真実」は。ファスビンダーの映画ならそんなふうに俗っぽく見てもいい。