私がやりました


マドレーヌ(ナディア・テレスキウィッツ)とポーリーヌ(レベッカ・マルデール)の女二人が男達の間抜けなオフィスへ乗り込んで芝居をうつあたりから映画はぐんと面白くなる。それまで自説を滔々と、嬉々として語っていた判事(ファブリス・ルキーニ)が、弁護士であるポーリーヌの(同じようにモノクロの、作中では映画的映像で表される)話には一言「メロドラマティックだな」。その後、「女優」マドレーヌと脚本家ポーリーヌの舞台裏=面会室を経て場面は舞台=法廷へ。

この世が女にとってどんなものであるか言葉で理解しているポーリーヌの書いた脚本を、軽んじられることをこの世で最も嫌うマドレーヌが演じて全てを手に入れる。女だけでなく男もその恩恵を受ける。善悪の基準は歪み、女達はマドレーヌを真似る。マドレーヌは欲しいものとして「結婚する、私が望めば」と言っていたけれど、自分に力があるなら(いつでも別れられるなら)アンドレのような男との結婚はむしろ娯楽である。

ポーリーヌいわく「男女の平等が法で保証されその法が守られなければ地球は回らない、女は犯罪によってしか望みを達成できない」、物語の全てがこれに則っている。だからこの映画はどこか、間違っている土壌から噴き出てきた、見事に巨大で艶々した吹き出物のように感じられる。映画としては正しいあり方だ(ちなみにポーリーヌは先のセリフの際に「壁」を超えてくる、女三人がそれぞれ一度ずつそうする、そのカットで語っていることが「真実」なのだろう)。

二人が人々の前で駆使する言葉には本音と男を懐柔するためのセリフとが入り混じる。ポーリーヌの「自衛行為は全て正義がないことの証」などが前者なら、彼女によって書かれたマドレーヌの、疑問も覚えず(「当時ならそうだろう」と言われるだろうが)全員男の陪審員席に座っている奴らに向けた「貞操を守るため」「あなた方の母親や娘の大義を私は果たした」などが後者と言える(後者が恋人に大変効くのが笑える)。

マドレーヌは気付いていないがポーリーヌは彼女を性的にも親しく感じており(しかし一つだけのベッドは男達の前では「暖をとるため」にしておかねばならない)、そこへ登場したオデット(イザベル・ユペール)との間には二人にしか分からない何かが流れることになる。ちなみに突如引く手あまたになったマドレーヌが『マリー・アントワネットの苦い涙』なる映画に主演する撮影シーンに、その頃には映画を撮らなくなっていたアリス・ギイのことをふと思い出していたので、後でオデットがその名前を出したのに想像が膨らみ面白かった。

ある女性監督は「女が作り手に回ると男の表象こそが変わる」と話していたけれど(いわゆるシス男性が最大の派閥だとはよく言ったもので、そうでなければ同じ属性になり得る)、面白いのは大家もパルマレード(ダニー・ブーンが素晴らしい)も結婚を約束したアンドレも、マドレーヌに性的欲望を向けないところ(婚約者の場合は間抜けな理由でと言えるが)。男が「やり」たがらないわけがないと男達が主張する世の中においてはこれが正解に思われる。エンドクレジットに流れる記事の内容が相反しているのは、私にとってオゾンの作品がよいものとダメなものとにはっきり分かれることの表れのようだけども。