キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン


私にとって「ボスがいる、何をして食べているかよく分からない男達の映画」とはギャング映画だから、それに当てはまるこれもそう見た。面白かったけれど、主人公アーネストを演じるディカプリオのバカ面を見なきゃならない時間がいくら何でも長すぎて苦痛だった。「バカ」な男の顔なんて何億時間も見てきてるんだから、これじゃあ結局のところいつもの映画でしかない。リリー・グラッドストーン演じるモリーの賢さが僅かなシーンで分かるんだからアーネストの「バカ」さだってあんなにくどくどやることない。さすがの素晴らしさだった「おれが彼女を車に乗せた」、ああいうのだけでいい。

オセージ族のモリーの語りがオープニングの他に二回、一度目は私立探偵を迎えに出向いた駅のホーム、二度目は赤子が産まれたお祝いの場、いずれもその目に映っている(私達が見る)のは白人男女の顔、顔、顔。彼女は出会った頃のアーネストになぜここに来たのか聞いていたけれど、あなた達はなぜここに来たのか、なぜここにいるのかという話である。だからその声を聞きながら、この映画が彼女の視点でないのは奇妙だと猛烈に感じてしまった。終盤回復したモリーと久しぶりに会ったアーネストが「弁護士が二人待っているから」と連れて行かれた先で待ち構えている一族郎党の姿、あれは彼女がずっと見ていたものなんである。

モリーの母は死を前にしてフクロウを見る。毒を盛られてじわじわ殺されるモリーも見るということは何がそれを見せていると解釈すればいいのだろうか。そして母が死ぬ際の彼女の主観映像に在るもの、あれこそ「天に呼ばれる時に死ぬ」はずのオセージ族から白人が奪った最たるものである。あの映像体験ゆえ、私達は映画の最後にスコセッシが読み上げるモリーの弔文に彼女の生と死が本来持っていた豊かさを重ねられるのだ。