パラダイス:愛



ウルリヒ・ザイドル「パラダイス3部作」の一作目。予告編から想像してたよりずっと面白かった。


作中の「状況」には憧れずとも、入り込みたくなる映画というものがあり、私にとってはカウリスマキ作品などまさにそうなんだけど、この映画も同様。小さなバスに揺られながら、ガイドさんに合わせて挨拶を練習したくなる!(ホテルに到着するとまさに教えられた二語でもって迎えられる、ここが最初の笑いどころ)事前に見たスチール写真の、一人プールに足を付けている主人公の後ろ姿も、あんな場面の後だなんて思わなかったけど、私もしてみたくなった。


オープニング、一人立ってゴーカートの客達を見つめる女性。この人が主役かあと思っていると、一転、車に取り付けたカメラで撮られた、はしゃぐ人々の顔、顔、顔。映像の「妙」に加えて、彼女の話であってそれだけじゃないってことだろうという予感に引き込まれた。
帰宅した彼女は台所で肉を捨てる。違う肉をつまみ食いし、残った肉をしまう。この場面も面白い。彼女も「肉」だが、生きている、しかも捨てたり食べたりしまったり出来る、と思う。
彼女は娘にあれこれ小言を言う。リゾート地に発つ直前には、身内宅に預けた娘を「口答えしなきゃ可愛いんだけどねえ」と抱き締める…抱き合うカットの後に「パラダイス」、続いて「愛」とタイトル。


長々続く場面が多々あるけど、圧巻は、彼女が現地の「シュガーボーイ」に、「おっぱいの触り方」についてあれこれ注文を付ける一幕。「突っつかない」に始まり、目を見て、その奥の心を見て、触りながらキスをしてと煩い。私はセックスにおいて相手に「注文する」ことって出来ないから羨ましいような気もしつつ、私もお金で人を買ったらあんなふうにするのだろうかと思いつつ、先の小言の場面が頭に浮かんだ。彼女は「指示」してしまう人なのだ。
親子間なら「愛」のようなものがあるから、あるいは諸々の理由により、「指示」されようと言うだけ聞くだけで済もうと、たまたまの相手じゃうまくいかない。こっちが笑ってしまったり(「あんまり笑わないでよ」なんてセリフがいい)、向こうはにやにやしたり、作中最後の男には拒否されて部屋から追い出す始末(「シャツは外で着て」って人非人だな)。この男に限らず、相手の方の「その後」もちらりと入るのは、冒頭のゴーカートの場面に続いてるなと思う。


ホテルの様子を最初に捉えた場面で、プール掃除をするスタッフの姿に次いで、プールサイドに並んだ椅子にぽんぽんとタオルを置いていくスタッフの姿が映される。「同じようなのをたくさん」迎える用意だ。作中何度も、白人男女が横たわった、あるいは空の、ずらりと並んだ椅子が映し出される。彼女が「仲間」とお喋りしたりはしゃいだりする場面はしょっちゅうあれど、その面々や、椅子に横たわった人々が「何」をしているのかよく分からず、彼女だけがこの地で迷子になってしまったんじゃないか、なんて気もした。
何も要らない、お金は払わない、なんてことを許さず、向こうから買え買えと迫ってくるのが世の中。「シュガーボーイ」のお金への欲と、彼女の「欲望」は常に、目に見える激しさはなくとも拮抗している(金の話を聞きながら、ベッドに突っ伏した男の尻をふと触る場面!)さながらそれは、警備員の控える柵を越えて足を踏み入れた波打ち際のようだ。彼女は何かを踏んで、ちょっとした怪我をする。「シュガーボーイ」じゃない男にまで手を出すなんて、入りすぎたのかもしれない。傷ついた彼女が男達とすれ違い続けるラストシーンに、それでもまあ、何とかなると思う。


この映画の「性的」な場面は全て「本物」っぽい。変な言い方だけど、こうだよなあ、と思う。他の場面が「本物」っぽいから、そっちだってそうじゃなきゃ確かに変だ。「シュガーボーイ」が彼女に蚊帳(天蓋?)を掛けてやる場面(本国版ポスターのイラストに使われている場面)なども、お金目当てってだけじゃない、ふとそういう気持ちになるってあるよなあ、私自身がこの男「みたいなこと」をしてたことがあるから、そうだよなあ、と思う。「パラダイス」がもしあるとしたら、それはこういうところに匂いだけを漂わすものかもしれない。双方とも気付かないけれど。
「男女」間のセックスを描きながら、「女」であることは嫌だなあと全く思わずに見られたのは、お金の介在で隠蔽されていることが浮き彫りになっているからでもあるし、作り手の、「女」を特別視しない姿勢ゆえでもある。「誕生パーティ」において、誰が一番に勃たせられるか競争!と言いながら、勃たせられなくても別に構わないあの感じ、お金を払わない限り女はめったに体験出来ない気がして、それだけでも見たかいがあった(笑)