ペトルーニャに祝福を


警察と教会という男ばかりで構成された二大組織のトップ同士の酒を飲みながらのやりとり「盗難の被害届を出してくれ、彼女を釈放しなきゃならなくなる」「盗まれたわけじゃないから出せない、嘘はつけない」の馬鹿馬鹿しさ。作中殆どの時間ペトルーニャ(ゾリツァ・ヌシェバ)は拘束されているが、正当な理由は何もない、男達が自分の対面を傷つけた彼女に当然のごとく罰を与えているだけなのだという話である。監視カメラに布をかける署員のように、本来許されないと分かっていてやる奴もいる。

起き抜けにペトルーニャが口にする「裸でいると自由を感じる」。昨年Twitterでスーツでもスウェットでも女性のものだけ「きれいに見える」ことを第一に作られているという問題提起があったものだけど、女にとっては服を着ることが抑圧でもありうる。十字架を手に帰宅した彼女は「キリストかよ」の揶揄(「神は女じゃない」からね!)への反抗のように裸の胸にそれを載せて横になり自らを解放する。外に出ざるを得なくなると「きれいに見せる」と皮肉を言って面接用に借りたドレスを再び着る。男達はというと、上半身裸で通りを闊歩し目的地に向かい、あまつさえ警察に押しかけた際には肌を見せて威嚇する。

リポーターのスラビツァ(ラビナ・ミテフスカ…テオナ・ストゥルガル・ミテフスカ監督の妹なんだそう)の「2018年のマケドニアは中世の暗黒時代と同じです、まさに『永遠の国』、ずっと変わらない」(ペトルーニャは「自分の国の歴史には興味がない」と言ったものだ)の後に一人ずつ映される、踏みつけられている女達の姿。この映画にはそうした弱者は結び付きを妨げられるということも描かれている。「既婚男性」と付き合っている「秘書」の友人、悪夫に悩まされつつ男社会の中で男社会の害悪を訴えんとするばかりに(放っておいたら誰も問題にしないからね!)取材対象に気の回らないリポーター、娘につきまとい男社会で生き易いよう矯正せんとする母親。対して父親は作中語られる「ペトルーニャの父」だ。

映画はペトルーニャが変化する過程をとある一日の朝から晩までに時間を絞って描いている。布団の中に閉じこもっているのに始まり、母親や女友達とのいつもの交流を経て、男性と相対する場面で覚醒するのが面白い。この時のガラス張りの部屋は私には、同じ環境であっても男と女ではその意味するところが違うのだという示唆に思われた。作中ではガラスが様々な意味でもって使われているが、同じ年頃の女と男、ペトルーニャとダルコの「あなたは就職できていいね」と「でも同僚はあんなふうだ」の間には、手は繋げてもやはり透明な一枚がある。「あなたは何がしたいの」に特に何もと彼が答えるのは、組織の中にいる者は特に何がしたいわけでもないのだということだ。