馬を放つ



舞台はキルギス。冒頭、ムスリムの女性達(大人の女性と引率された子ども達)が吊り橋で主人公「ケンタウロス」(監督・脚本兼のアクタン・アリム・クバト)を認め引き返す描写に、イスラム教徒の女性は吊り橋で男性とすれ違ってはいけないのか、そういえばムスリムと吊り橋なんて、ある土地では当たり前の組み合わせをこれまで見たことがなかったなと思う。彼は道を譲ってくれた形の相手に「神の御加護を」と声を掛ける。


資産家カラバイの屋敷に現れたイスラム教の伝道師の一人は、子ども達のゲームに興味しんしんといったふう。寄付を求められたカラバイが「三人分の寄付をすれば人生の罪が三回分消えるわけですね」と返すとゲーム機の横で「いいえ四回分です」と答えるカットは、ゲームも宗教もそんなふうに何でも簡単に表してしまう軽いもの、という皮肉のように見えた。終盤、かつて映画館だったモスクで礼拝を強制されるケンタウロスが途中で抜けても伝道師達が何事も無かったかのように空いた場所を詰めて祈りを続ける描写にも似たようなものを感じた。


しかし私にはその、伝道師の中ではアウトサイダーと言ってもいい眼鏡の彼(名前を失念)が、尤も「人間味」のある人物として描かれているように思われた。「あなたが馬を盗む理由は分かりますよ」と頓珍漢な共感をし、「馬鹿なふりをしていれば誰も何も言わなくなりますよ」とアドバイスする(ということは先のゲームのくだりもおそらく「ふり」をしていたのだろう)彼は、ケンタウロスの裏返しのようにも見えた。


「時代に取り残された男」と「ろうあ者の女」が共に暮らしているとは殆ど「シェイプ・オブ・ウォーター」だけれども、こちらではその意味するところは全く違い、男は世の変化に抗いまくり、女は外に向かわない(彼女は「母」でしかなく、またキルギスの言葉を持たないため外に出ることが出来ない)。夫婦の子は言葉を発さない。男が村から追放されたところでようやくその口から「お父さん」と出るのは、犠牲と引き換えの文化の芽生えだろうか。知らぬケンタウロスは、伝道師(=宗教の押し付け)でも村人(=資本主義)でもない、吊り橋上の若者に自らの「文化」を渡して去る。


ケンタウロスの処分を巡って対立する伝道師と村人の間に「女は黙ってろ」「お前達は女を閉じ込めてるが、この村の女は強いんだぞ」というやりとりがなされ、村の女も加勢はするが、ベクデル・テストをパスしない類の映画(このテストに意味があるのだと再確認できるくらい、作中の女同士の間で交わされる会話は男に関するものだけである)でこのような場面を見ても、当の主人公が蚊帳の外であるという諧謔よりも、女について男同士が喋っている馬鹿馬鹿しさばかりを感じてしまう(作り手がそれをも示唆しているとは思われない)。尤も最近では「リメンバー・ミー」がそうだったように、違和感を覚えようとそれもまた「文化」であると私が受け入れねばならないものなのかもしれないけれど。