フリッツ・ホンカ(ヨナス・ダスラー)の兄(マーク・ホーゼマン)は人が酒を飲む理由を「憂さ晴らし、祝い事、暇つぶし」と挙げるが、昼間でもカーテンを下ろした「ゴールデン・グローブ(原題)」の客、大戦からこちらを生きている人々の理由は一番目のみである。ただしホンカは稼いだ金で飲んでいるが、彼についてくる女達は働き口が無いのでついてくるのである。
店内に感傷的な曲が流れると皆が涙を流す中ホンカだけがそれを不思議がっているというのは、人々と彼との間に違いがあると言っているのだろうか。酒を抜くや明るい空が映り映画は大きく転換するが、人と違う彼に結局昼間は訪れなかった。元より彼は音楽を自分や他人の音を消すために流しているふしがあり、それを踏まえて曲を聞くエンドクレジットも奇妙な気持ちになった。
印象に残ったのは最後にホンカを捕える制服を着た男達の姿。昔、街中で性被害に遭うと制服を着た男性にひとまず頼っていたのを思い出した(嫌がらせされたら助けを求めていたということ、といってもそれが出来るのは何十回に一回だが)。ホンカが欲しかったのはその、私が相手を見分けるのに使っていた、実のところはどうであろうが特定の者に与えられる信頼の担保なのだろう。冒頭街角で自転車に遭遇するだけで状況もあれど死ぬほど怯えていたのが、新たな職場で「俺専用の部屋」にgun、制服を手に入れるや物音にびくつきながらもそちらに足を向けるようになるんだから。
時代からしてホンカを捕えるのは男性ばかりで、作中あの手の制服を着ている女性は救世軍の彼女だけ。店に足を踏み入れた彼女がまずするのが女達の話を聞く、聞いているという姿勢を示すことというのが面白い。向かいの席の女達にはもう、その優しさを受ける余裕すらないが。
オープニングが70年、飛んで74年にはますます増えている裸の女達の写真にはふと、Netflix「殺人鬼との対談:テッド・バンディの場合」で聞いたバンディの肉声が「この症状はまず性的な画像への興味から始まった、映画館や雑誌で見る普通のものだ」と語っていたのを思い出した(尤も彼は「次第に特殊なものへ興味が移って行った」そうだけど)。接見した人だかは「裸の女のイメージを見続けることでそれと暴力とが結びつくようになった」と口にしていた。
屋根裏のソファの女達と背後の写真の女達の違いは喋るか否かで、「もの言う女を嫌う」どころかホンカとしてはあれっなんで喋るんだ?ってなものだったんだろう。写真の中に男女のカップルのものがあったのは不思議だった、ああいう男性は男の存在を嫌うと思っていたから。