
カンヌ監督週間 in Tokioにて観賞。2024年アメリカ、インディア・ドナルドソン監督作品。
子どもの頃に百科事典をめくっていた時の気持ちが蘇るようなオープニングの後、ある家で登山の準備をする二人。同性の恋人ジェシーと自室でくつろぐ少女サム(リリー・コリアス)、布物の匂いを嗅いでパートナーらしき女性に「洗ってないのか」と言い「それじゃあ川で洗って」と返される父親(ジェームズ・レグロス)。作中再びオープニングのようなものが映る時、子どもの頃のような安堵を覚えることはもうない。
女性がテントを設営する映画を続けて見た。現代中国映画祭の『家出の決意』では家族のために全てを犠牲にしてきた50代の主人公が自分だけのためにする初めての行為だったが、こちらでは女が自分一人となれば何故だかやることになる、10代の主人公の行為(やれと言ったわけじゃない、と父は言うだろう)。水汲みに食事の支度と、家では他に女性がいたからやらずに済んでいたにすぎないと分かる。サムは父親の仕事相手の女性への返信内容から目の前の親友への言葉まで、彼によって誰かが傷つくだろうと思えば介入する。
ちなみに『家出の決意』(や通じるところのある『YOLO 百元の恋』)が主人公がSNSで自身を発信するのに終わるのと、本作で父親やその親友マットと異なりサラにとってはスマホがほぼ命綱であるというのは同じことを意味している。女にとっては区切りのない世界に安心と救いがある。
マットがテントの中で飲食したと知り「娘を熊の危険に晒す気か」と怒鳴った父が、自身が寝た後で彼に「一緒に寝よう」と言われたと娘に告げてられても「あいつはああいう奴だから」「楽しい日にしよう」で済まそうとする。女の性被害なんてものは男達の世界に何の波風立てるものでもないという例のあれだ。サムは寝ている男達のリュックに石を詰め一人帰路に着くが、車の鍵を持たず二人を待つしかない。彼女には何も解決できないというあの結末を、あの場の二人、更には観客の何割かは話が「終わった」かのように受け取っているんじゃないかと考えると怖い映画だ。
それにしても、カンヌ監督週間の公式サイトによる紹介文「些細だが軽はずみな言動によって揺れていくティーンの繊細な内面を丁寧に掬い上げ…」とは酷い。書いた人があのお父さんか。読んで出向いたら不意打ちの酷い嫌がらせ描写に普段は忘れることのできている被害経験が蘇り気分が悪くなってしまった。