おとなの恋の測り方



帰宅して靴を脱ぎ捨てたディアーヌ(ヴィルジニー・エフィラ)が室内を、まるで行き詰っているかのようにうろうろと移動し、やがて窓を開けて潮の音を聞いてからのオープニングタイトルが何とも不思議である。気合の入った様子で待ち合わせへ向かう道すがら、階段を下りたりエスカレーターを上ったり、すれ違う人々は彼女をじろじろ見たり一瞥もしなかったり、最後に乗り込むエレベーターでは男達が黙り混む。これはそれこそ、どう見るかを決めるのはあくまでも見る側なんだということの「メタファーよ、まあどうでもいいけど」なんだと思う。


冒頭から「体を使うこと」がうまく撮られている。ディアーヌとアレクサンドル(ジャン・デュジャルダン)の出会ってすぐのスカイダイビング、アレクサンドルと息子ベンジー(セザール・ドンボワ)の「打ち合い」(後にとある人物が一人で「打ち合い」の練習をする場面もそれこそ「メタファー」ぽい)、「ディスコ」デートではベタベタな曲がほぼ丸ごと流れる中、セリフもなく派手な動きをするわけでもなく、ただ互いがいると確信して踊る二人の様子が描かれる。ここで分かるのは、彼が「スカイダイビングは二度目だ」と言ったのは冗談ではなく、彼もまた、体を使うことをそうしてこなかったということだ(翌日職場でダンサーをうっとり見るのは、俺も踊った!という感慨なのである)。


その後の初めてのベッドにて、キスして抱き合いながらも、鏡に写った自分達の姿に困惑してしまう、あれは私だってそうなるに違いなく、軽く刺されたような気持ちになる。まさにディアーヌが後に秘書に言うところの「一緒にいると愛してるって思うんだけど、離れるとこの状況がグロテスクに感じられる」というやつだ。それに対してアレクサンドルは「僕を」見てと言う(経験上、実はこのことを望む男性は多いと思う。女に目を閉じて欲しくない男性というのはいるものだ)。結局はディアーヌの幸せを願う母親はともかく、彼を子ども扱いする秘書や「ブロンド」好きらしき元夫は物語が終わったところでどうともなっておらず、これはまさに主人公の話である。


核心にぶつかりそうになるとひょいと脇へ避けちゃう卒のなさが実に器用なローラン・ティラールの映画らしく、物足りなくもある(…と見ながら思ったものだけど、本作はアルゼンチンの映画のリメイクらしい。元を見てみたいとはあまり思わない)。男女逆版を作る度胸はあるのか、つまり「美男に一目惚れした『低身長』の(あるいは他の『一目で分かる差異』を持つ)女性がアプローチして『私のこれはあなたのブロンドと同じ』と言い、恋を実らせる」映画が作れるのか、とは思う。この映画は「男は容姿じゃない」という数々の物語の下駄を履いているとも言えるから。ジャン・デュジャルダンの演技も素晴らしく、彼演じるアレクサンドルの苦悩は伝わってくるけれども。


「小さな男なのに大きな事をしてるのね」「やめてよ、そんな言い方」「なぜ?誉めてるのに」って、「女だてらにすごいね」と同じだよね、とても失礼。分かってほしい。また秘書の言動には、一部の男性が女を時に子ども扱いするのはもしかして自分の方が体が大きいからだろうか、なんて考えてしまった(笑)