永遠のジャンゴ



やけに「椅子」が印象的な映画だった。キャラバンに、教会に、誰かの手によって並べられていた。椅子とは居場所である。「希望のかなた」でシリア難民のカーリドがロマの女性にお金をあげようとする(と制服を着た二人組に登録証の提示を求められ、結果的に彼と女性との繋がりが断ち切られる)シーンにおいて、ホームレスの彼女は地べたに座っていた。


オープニングの一幕を経て、今日も遅れて楽屋入りしたジャンゴ・ラインハルトレダ・カテブ)のステージ。その手付き、佇まいに、何かこう、既に出来上がっている、とでもいうようなものを感じた。後に体のあちこちを「調査」されるくだりは「サーミの血」を思い出したけれど、あちらがこれからの人間なら、こちらは既に確固たる人間といったところか。それが破壊されそうになる。あることを決意する、あるいは決意した彼が自宅で眠りにつく姿にはふと「起きて半畳、寝て一畳」という言葉が思い浮かんだ。それくらいの場所、なぜ侵すんだと。


「モンマルトルの夜の女王」と紹介されるルイーズ(セシル・ドゥ・フランス)は、パリに戻ってきた独身女。冒頭のステージ後の食事から店にはしごするシーンで不意に、映画のストーリーには関係ないであろう(作り手が考えていないであろう)、男の中に女一人でああいう席に居る心境を想像した(その後、彼女は客の女達と踊る)。ジャンゴの妻に「彼は美しいものを作れる人」と言う彼女は、彼に対する自身の気持ちを「私のために」「遠いところで」演奏してほしいと表現する。非の打ち所のない、よく出来たセリフである。しかしこの、何もかもが「自然」な、「自然」であるために必要な全ての要素を満たしたような女の造形はうさんくさくもあった。


一番苦く感じたのは、ジャンゴらがレジスタンスに「若い男が必要だろう」と仲間の保護を持ちかけなければならなかったところ。「役に立つこと」と生存とを引き換えにしなきゃならないなんて。それが成立すると、ジャンゴは「女や子ども、老人は?目を見て答えろ」と迫るが叶わない。一番心が乱されたのは、晩餐会で演奏が激しくなり、会場も乱痴気騒ぎになるところ。言ってみれば俗っぽいサスペンスシーンでもあるんだけれど、少しずつ、あらゆることがはみ出していく奇妙な感じを受けた。映画のラスト、パイプオルガンの前に立つジャンゴの姿には、場面転換の前のあれを彼は昨日のことのように覚えているだろうという確信が不意に心をよぎった。