時の終わりまで


イスラーム映画祭2022にて観賞。2018年アルジェリアUAE、ヤスミーン・シューイフ監督作品。

聖廟参詣のお祭りが始まる日。遺体のお清めと埋葬を担う男達が昨今のお墓事情を愚痴っているのを尻目に一人黙々と働いているアリーと、バスで到着する女達が歌ったりお菓子を回したりと大はしゃぎしているなか一人押し黙っているジョヘルが出会う(ちなみにこの一行の男達の方はトラック後部に家畜のように立って乗ってくるんだけども、実際ああいうものなのか、それとも泥臭いユーモアが込められているのか)。

一つには、恋をしたことがないであろう高齢の二人の恋の物語である。その様子は子どもっぽくも見え、ジョヘルが居るのに外からしれっと鍵を掛けて外出してしまうアリーなんざ男の子が籠に虫を閉じ込めているようだ。しかし満更でもないジョヘルが応えて二人は食事をしたり出掛けたり語らったりと楽しい時間を過ごすようになる。ジョヘルはこれは誰の墓、あれは誰の墓と職場を誇らしげに紹介する。「この木の陰にはいつも人がいて寂しくないから、君が死んだらここに埋めよう」の笑顔がいい(男の人っていつも自分の方が長く生きる設定なんだから!という)。

アリーの仕事仲間のナビールがジョヘルに持ちかける「独り者のあなたが病気になったら見舞いに行く、死んだら埋葬する」とは私の耳には極めて便利な契約、ビジネスに聞こえるが、当地においては普通ではない。彼の「この町は死でもってるのに誰も認めようとしない」という言葉と、アリーが子ども達に石を投げられるのとは表裏一体である。死に関わる者が触れてはならない存在とされ、「人」であることが無視されている。冒頭の彼らの、立派な労働者のように見えた姿が蘇る。

結婚生活から逃げ出した姉は悪い女なのだと叩き込まれ自身は耐えてきたジョヘルは、姉の暮らしの跡で初めて心許せる女性同士の関係ややってみたい仕事を我が物にする。歌ったり踊ったり走り回ったりして一緒に楽しめる恋もする。一方のアリーは、恋をしていわば人間らしくなったことにより、いや新しい世界を知ったことにより、共に働いてきた男達の心がばらばらであったこと…指導者でさえも…を実感してしまう。彼が「いい女」と言って不審がられるお清め女性が大変に時代に順応して仕事をこなしていたことを思うと、男性の方が変化に耐えられないというふうにも取れる。

長年想い合っていたナスィーマとジェルールの「初夜」の場面には、イスラム文化圏の映画においてこんなにも幸せな気持ちになれる「初夜」は初めてかもしれないと思う(大抵の場合、告発の意があるから)。結婚というものにつき懐疑的ではあるけれど、ああいうのもあってしかるべきだから嬉しかった。