カラーパープル


アリス・ウォーカーの小説は未読。スピルバーグ版(1985)と同じく映画はセリーとネティの姉妹が手遊びしているのに始まるが(後にネティが言う「まず遊ぼう」…「女の子だって楽しみたい」もんね)、二人が座る木の下をミスター(コールマン・ドミンゴ)らしき男が馬に乗って歌いながら通り過ぎる。なんでここに男がいるんだよと思っていたら、これは愛し合う女達と「男」が融和する(ことを強調している)物語なのだった。ミスターが肌身離さず抱えているバンジョーは「血を流して手に入れた土地」をいわば受け継がされたことへの反抗のしるし。ここには男達が世代によって変わってきていることも描かれているが、その変化は女達のように得たものではない。

黒人だけの世界から外へ出て白人社会に叩きのめされたソフィア(ダニエル・ブルックス)は「一人にしないで」と言ったけれども、セリー(ファンテイジア・バリーノ)がミスターに初めて反撃しソフィアが生き返るあの食卓には二人に加えてシュグ(タラジ・P・ヘンソン)や「スクィーク」(H.E.R.)など女が皆揃っていることに改めて気付いた。正しく黒人女性の連帯の話であり、その手は贖罪後のミスターが店を訪ねて来た後にセリーが一人「私は美しい、そして生きている」と歌うところでスクリーンのこちら側の私達に伸ばされる。

作中出てくる「男」と「女」のありようの数々は、時代も文化も違えど今現在の私達の中に形を変えて生き続けていると思う。ここではその根にソフィアとハーポ(コーリー・ホーキンズ)、シュグとミスターなどの互いにセックスをしたいという欲望があるのが面白い(スピルバーグ版ではシュグがセリフで「彼とのセックスはいい」と言ってしまっていたけれど、こちらは映像で見せる)。それに打ち勝つようでなければならないはずの…なぜなら無いものとされてきたから…シュグに惹かれるセリーのレズビアンとしての描写は、入浴中のタラジ・P・ヘンソンの腕の艶めきが印象的な程度で随分弱い。キスシーンの薄ぼんやりしていたのが特に残念だった。

スピルバーグ版で一番印象的だったのは、アリス・ウォーカーが抜擢したというウーピー・ゴールドバーグ演じるセリーがミスターを「はいはい」といなすように扱っていた点。あまりに酷い境遇の中でそれしか生きる術がなかったという現実味にも取れるし、そうしてミスターを間抜けに見せることで残酷さを薄める及び腰とも取れる。今回の映画ではそうした感じは皆無だった。その代わりが歌と踊りだったとも考えられる。小説を読んでいないので映画化の際の目立った違いの意味合いを読み取るのは難しいけれど、シャグが「セリーのブルース」を歌うタイミングが全く違うのが特に気になった。