バービー


全くケンなんて作るから、いや違う、「決して変化しない」関係なんて作るからこんなことになる。Netflixのドキュメンタリー『ボクらを作ったオモチャたち(2017/The Toys That Made Us)』ではバービーは結婚できない、してしまうと主婦の苦労を背負わなければならないし仕事にも就けなくなるからと説明されていたけれど、この映画はそのごまかしのツケがバービーとケンを襲う話だと言える。この、「女」といえば「若い女」として以降の辛苦をないものとするやり方は今の日本でも横行している(そもそも若いうちから多大な苦労があるわけだけど)。

冒頭、現実の反転で男性が差別されている形のバービーランドでケン達(ライアン・ゴズリングとシム・リウ)が争う姿は、男の手による世界で女達が男をめぐって争う(とされている)のと同じで胸が痛くなる。最後の作戦でバービー達がそれを利用するのが私にはぴんとこなかったが、この映画は色んなネタをうまく盛り込んだ女達のお喋りのようなものなんだろう。ラストの「ケン達の社会進出はこれからなのです」には笑ってしまった(これは女が女のことを言っている自虐ギャグだよね)。

マテル社で働くグロリア(アメリカ・フェレーラ)がバービー達の洗脳を解くwoke描写は、対象がバービーと「はみだしもの」に限られているけれど、要するにアメリカ映画につきもののスピーチである。バービーランドのほぼ全員が洗脳されてしまうのは(「天然痘」に例えられていたけれど…)定番二人が人間世界に行った時、「自分は違うけど他のバービーが」「自分は偉い、男だから」と考えていたこと、すなわち属性に頼っていたことが根にあるように思う。アラン(マイケル・セラ)が洗脳されなかったのはどこにも属していないからだろう。

サーシャ(アリアナ・グリーンブラット)が、友達の「がつんと言ってやれ」を受けて滔々とバービー本人(マーゴット・ロビー)にバービーの害悪について語る場面で、その断絶に悲しくなるのと同時に彼女がここまで進んだのは他の女達の変わるための努力ゆえだと思ってぐっときた。この映画には世代の異なる女への、あるいは同士のリスペクトが溢れている。バービーが人間になろうと考える切っ掛けとなるバス停での老女とのやりとりやルース・ハンドラー(リー・パールマン)との出会い(彼女が初めてちゃんとお茶を口にするのは後者に出された時である)、スピーチをしている母グロリアを見る娘サーシャのまなざし。

先にあげたドキュメンタリーによると、バービーが開発された当初は人形に胸があるなんてと男性関係者に反対されたそうだけど、胸を性的なものと捉えるのは男性であり多くの女性にとって胸はただの胸である。本作の「何者かにならなくてもいい、自分でいるだけでいい」はそうしたところにも繋がっておりいいなと思った。対してラストシーンには女として生きることの重さの前でのあえての明るさ、皆も行こうね!というメッセージを感じたけれど、その前の「母」が刻印される場面はそのしんみりさも含めて好きになれなかった。