ガールズ・ロスト/2人だけの世界


「トーキョーノーザンライツフェスティバル2017」にて、続けて二作を観賞。


(以下、いずれも「ネタバレ」あり)



▼「ガールズ・ロスト」(2015/スウェーデンフィンランド)の冒頭には、映画「デヴィッド・ボウイ・イズ」のトークセッションでジャーヴィス・コッカーが言っていた「ボウイの書く文字は14歳の少女のよう」を思い出した。主人公は14歳の少女で、部屋にパティ・スミスと「アラジン・セイン」の写真を飾っているから(そういう、一見「分かりやすい」映画である)


タイトル(原題「Pojkarna」=「少年達」)が出た後、二人の少女が水中で「美しく」戯れる映像に何だこりゃと思っていたら、それは主人公キムの想像なのだった。自室のベッドに横たわる彼女の息遣いは陸に上がった魚のようである。しかし水の中でも息は出来なかった、そういう話である。


「少年達」に変身した「少女達」が、夜中でもまず学校へ走って行くのに涙が溢れてしまった(日頃は学校で「ブス」「レズ」と主に男子生徒から苛められている)。それほどこの年頃の子、あるいは彼女達にとって、学校とは「大きな」ものなのだと。だからこそあの教師は許せない。


とはいえ仲間でも三人三様である。「女である」ことにつき、例えばベラは胸が「ある」ことや大きいことが嫌なわけではなくそれを苛めのネタにされるのが嫌なのに対し、キムは「男」になる前から「ジッパーを開けると中に違う自分がいるような感じ」がしている。


キムは女の体の時は親友のモモに、男の体の時はそれまで遠くから見るだけだったトニーに惹かれる。必ずしも自分の体との関係というだけではなさそうで、後者について「他の誰かを演じているところが自分と似ているから」と言う。モモは「あなたにとって男になることは私たちとは意味が違うものね、心は男だったんだもんね」と「男」の体になってキムを引き留めようとするが、キムは「そういうことじゃない」と去る。


キムは自分を苛めていた少年に上り棒で「勝った」後、「あんたなんて怖がることなかった」と上から言い放つ。面白いのは、冒頭には恐ろしく、あるいは大人びて見えた少年達が、「少女達」が「少年達」になって近付いてみると全くそうは見えなくなることだ。水から上がったトニーなんて本当に子どものようである(尤もそれは「男」や「女」に関係なく、人間関係全般においてあることだけども)


この映画のレイプシーンを見ると、女が、あるいは人がレイプを憎むのは(って「当たり前」すぎてそう言うのも変だけど)性欲ではなくその勝手を、暴力を憎んでいるのだと分かる。例えレイプをする人間が自分を偽っていたとしても、そいつが鳥を可愛がっていようとも。



▼映画を二作続けて見るとつい共通点を捕まえようとしてしまうものだけど、「ガールズ・ロスト」と「2人だけの世界」(2014/フィンランド、オランダ)はいずれも「子どもはどう生きればいいのか(反語)」という映画に思われた。その結論は、意味は違うが「森」にある、換言すれば「森」にしかないのだった。正直なところ、私はどちらのラストも「無いな」と思った。


「ガールズ・ロスト」が「鍵のかかっていない監獄」の話ならば、こちらは「鍵の掛かっている監獄」の話である。前者にいるくそがあの教師で、後者にいるくそがあの看守である。冒頭彼は女子の部屋で使用済みのタンポンを始末するが、それを引き出しに入れてはいけないと教えるのが大人のはずなのに、ただ気持ち悪いと捨てて終わり。「管理」しているだけなのだ。


ヨニとライサが、真っ暗な地下の倉庫にどちらが降りるかじゃんけんで決めるのが面白い。二人は子ども同士、あるいは弱い者同士であり、例え胸を触ろうと、社会的な男と女ではない。そう居られるのが彼らの「理想郷」なのである。少女が一人になるやたちまち、その若さと貧しさに目をつけた(この二つを備えた者が最もつけこまれる)男に札と暴言を吐かれるのが切ない。


ユーロスペースの入っているビル一階のLOFT9 ShibuyaのCafe9にて、折角だからとコラボレーションメニューの中からスモークサーモンサンドと北欧紅茶セーデルブレンドティーを注文。ストレートで飲んだ紅茶がとても美味しかった。