ファルコン・レイク


オープニング、ケベックの避暑地に向かう車内で幼い弟ティティを愛おしむふうな目つき、到着してベッドの上下になど全くこだわらない様子から、主人公バスティアン(ジョゼフ・アンジェル)は不満がない、というより欲望がない、何というかまっさらな存在に見えた。それが水辺でティティをあしらう姿を見咎めたクロエ(サラ・モンプチ)の「いつもそうなの?でまかせばっか」にそうは言っても人は流されてしまうものだと思い、不穏な予感と共に引き込まれる。

スマホは14になってから(だから持っていない)」少年と、持ってはいるがまだ16歳、母親のほぼ気まぐれで取り上げられもする少女の話である。人が、とりわけ若者が社会の沼に引きずり込まれる時、女は傷つけられ男は傷つけてしまうというお馴染みの事実を訴えている映画だと私には思われた。ただしこの少年と少女は分身でもあったように見えた、引きずり込まれる者の一端と一端とでもいうような。

「私が体験したこと自体がproof」という女の訴えを「君らしくない(男がそう言うのはそれをしなければ自分に都合が『いい女』なのにという意味である)、子どもっぽい」と男が封じ込めようとすることへの逆襲の物語でもあった。この場面でクレアの話を取り合わない青年が「ネットになければ本当じゃない」とまず口にするのは一瞬ちぐはぐにも思われたが、この話の根っこには「ネット社会」の何たるかがある。二人が引きずり込まれる沼の要素の一つがそれの悪い面というわけだ。

クロエの、バスティアンが好きだと言う金髪でもなければ元彼の彼女のように「カラフルな服」でもない自分、いや女、に対する男達の態度への苛立ち(バスティアンの「抵抗」が彼女にはまだ見抜けない、あるいは見抜いて苛立っているのか)、そこへ滑り込んでくる男からの誘いに乗る様、元彼にされた仕打ちの告白、「周りの女の子は皆経験してる、してないのは変かな」「誰とも繋がれない気がして怖い」といった境遇や心境が、一つのキャラクターとしても普遍性を持つ「女」としても成立しているのが見事。この社会に生きる女の、男とのセックス(的行為)には自傷行為の要素がつきまとっていることを分かっていないと、この映画をジャンルから取り出すのは困難かもしれない。