ビルド・ア・ガール


キャトリン・モランの著作「女になる方法 ロックンロールな13歳のフェミニスト成長記」(北村紗衣訳)を思えばえらく純でお行儀よく整理された内容だけど、それが映画というものなのかもしれない。最後に主人公ジョアンナ(ビーニー・フェルドスタイン)が私達に言い切るメッセージに沿い、何を見せ何を見せないかを強くコントロールしているふうに思われた。デブと苛められる場面があっても容姿をどうこうしようという気持ちや行動が描かれないのは、奴らの方の問題なのだから女の子にもう悩んでほしくないという願いゆえだろう。ロックスターのジョン・カイト(アルフィー・アレン)が彼女を恋の相手にしないのは、歳の差恋愛による、長じてからでないと気付けない被害をフィクションの方から断っているんだろう。

オープニング、図書館にて「大抵は謎の男の登場で人生が変わる」。でも当初よりジャーメイン・グリアの「去勢された女」を読んでいるフェミニストジョアンナはアヴァンタイトルでもう、男には頼らないとの宣言を済ます。帰宅して「私は定番のヒロインじゃない」。趣味も意見も異なる家族が揃って「トップ・オブ・ザ・ポップス」を見る、すなわち文化を共有している家に「自分ひとりの部屋」はない。「女になる方法」が見向きもされていないけれど確かに在ることについて話す本だったように、この映画も悪口を言いまくりセックスをしまくり家族に怒鳴り散らす友達のいないウルヴァーハンプトンの女の子なんていう、今まであまり見たことのない、でも全然普通だとも言える要素で紡がれている。兄クリッシー(ローリー・キナストン)との部屋の境界を「ベルリンの壁」、テレビを持って行かれたことを「『若草物語』のべスが死んだみたい」などと例える感覚もこれを補助している。

ジョン=私の世界は「ただ真実を一つ言ってほしい」と願っていたのに、「あなたに恋している」という真実は下界の天気に関わらず晴れている雲の上のように、瓶に詰めた願いのように、それだけで素晴らしいはずなのに、思うように受け入れられない時、ジョアンナの心はねじれて暴走してしまう。先へ進むには嘘も必要と思い込んでしまった彼女は、嘘をつくとは嘘に塗れることだ、誰かを傷つけ愛する人への愛を行使できないことだと気付き、「ドリー・ワイルド」を脱ぎ捨てて間違いから訣別する(なぜかこの啖呵の場面のみ、ビーニー・フェルドスタインの素のように思われてならなかった)。ここに描かれている、今の私達が見直さなきゃならない問題は、第一に愛を歌うより憎悪をつぶやく方がよしとされていること(ここにトム・ハンクス演じるフレッド・ロジャースが現れたらどうだろう)、第二に弱い立場の人間ほど真実を表明するという選択肢に恵まれないことのように私には思われた。

ジョアンナが初めて書き上げたレビューをTomorrow, tomorrow, I love ya, tomorrowと投函しに行く、列車に乗って面接に行く姿をこちらも心躍らせながら見ていたら、これはこの喜びからもう一つ先の喜びまでの道のりの物語なのであった。本物の喜びを自分に与えよう、その間に何があろうが構わない、軌道修正することが大事だと言っている。先の喜びの合間にさらりと体育の時間のナプキンネタを挿入するセンスがよく、「洗濯機が発明されるまで女は忙しすぎて選挙権を推進する活動すらできなかった」との印象的なセリフが「女になる方法」からそのまま取られていることからも分かるように、この映画には生理って大変なことなんだ、でも普通のことなんだという訴えも織り込まれている。クリッシーの「排卵かよ」にも声をあげて笑ってしまった、あの突っ込みなら受けたい。