6月0日 アイヒマンが処刑された日


1961年のイスラエル。父親と交換した靴を履くことはできるが炉に入れる程まだ小さな少年ダヴィッド(折角の靴は確認されることもなく炉の掃除で恐らく汚れてしまう)はアイヒマンのことを知らずクラスで浮いている。「アラブ系だから差別されていると思っているようだが」と言うエリート層の教師はリビアからの移民である彼が、ひいては収容所を生き延びた父親がアイヒマンの肩を持っているかのような口ぶりだ。

父いわく「立派な闘士だ」、工場では「英国人よりアラブ系を大勢殺したって」と言われる、それこそ60年代の映画で見たような顔つきの経営者ゼブコ(ツァヒ・グラッド)とダヴィッドのくだりはどれも絶品で正統派の児童映画の輝きがある。ゼブコがダヴィッドを呼んでおいてあまりに容易に組み伏せる柑橘畑での一幕や「泥棒」に入らせる際に口にする「拳で殴り続けるんだ、相手が倒れるまで」とのアドバイスには彼がいかに戦闘を生き延びてきたかが表れている。そして、オフィスのベルを意気揚々と自分から鳴らすようになる少年に大人が言い渡すべき別れ。

既に体が重くなるほど生きてきたゼブコの戦友、刑務官のハイム(ヨアブ・レビ)のパートは私にはコメディふうに見えた。どのようなコメディかというと、まずは「(アイヒマンを)アルゼンチンで逮捕したのがそもそも国際法違反だから…」というセリフがジョークに聞こえるような、様々な国や宗教の人々が集う場ならではの面白さを醸すもの。やがて「見ての通りモロッコ人」のハイムが感情的になってしまう立場の者にはできない仕事だと意識するあまりその責任の重さに潰されそうになり、当のアイヒマンに心配される程の言動に走る様が滑稽に描かれる。

ポーランドのゲットーの生存者にしてイスラエル警察としてアイヒマンを取り調べたミハ(トム・ハジ)のパートは「ショア」ふうの映像にツアーガイドを行う彼の英語での喋りが被るのに始まり、男と女のメロドラマのようになってゆく。小さな店の小さなテーブルで彼らはゲットーを観光地にしてあなたを苦しい記憶に閉じ込めようとしていると訴える女性との切り返しを見ながら不意に、前の二つのパートにも違う形であったこの「映画」ぽさこそが歴史や被害者に対する真摯な態度であるという感じをなぜだか覚えた。だってそれが映画の仕事じゃないか?ともあれ物語は最後に現代に飛び、「歴史」とされるものと個人の繋がり、あるいは個人そのものは強化せねば正しく維持されないのだというテーマを愚直なほど率直に訴えて終わるのだった。