
最も印象的だったのは、人々の家の中から町が、町から家の中が見え、それらが常にシームレスに繋がっていること。人は家でなくコミュニティに暮らしているのだ、そしてエンドクレジットからも分かるように、それは攻撃されても…一部が殺されても、またレナ(ステイシー・マーティン)が「私といても楽しくないから」と一人になろうとするように分断されても…生き続けるのだという話である。ダヴィッド(ヴァンサン・ラコスト)が最後にアマンダに教えるように「もうおしまい、なんてことはない」のだ。
ダヴィッドがしているのはコミュニティの庭を整え(そこには「家」を持たない者達も住んでいる)一時的に出入りする人々を案内する仕事だと言える。当初彼は自宅のカーテンを閉めており、外に見るのは「目にすると勇気が出る」レナだけだが、アマンダにサンドリーヌ(オフェリア・コルブ)の死を伝える際に二人の家から出るのは、私達だとてそうするだろうと思われるが、町の助けを借りたかったのだとも取れる。公園には誰もおらず観光客のみが川をゆき、軍人は「散歩する日じゃない、帰りなさい」と二人に言う。その後、アマンダは初めて声をあげて泣く。
冒頭の姉と弟の自転車での帰宅は、彼らがコミュニティの中を自在に、軽やかに泳げることの比喩のようだ。一方アマンダが終盤まで自分で自転車を漕ぐことがないのは、彼女がまだ保護を必要とする子どもであることの強調に思われる。人はコミュニティに暮らすと言っても、子どもには安定した家が必要である。叔父の迎えを待つ、すなわち学校と家の狭間にいるアマンダを教員が「一人でいちゃだめ」と中に入れる冒頭からもそれが分かる。ダヴィッドと共に生きられるとの確信を得た後、ロンドンの公園で祖母アリソン(グレタ・スカッキ)の元に自転車と共に降りてくる姿は子どもながら実に堂々としている。
事情を知らない旧友に「お姉さんにも連絡するね」と言われたダヴィッドが、一度はそのまま分かれるが思い直して相手を追い掛け話をするシーンが素晴らしい。今年公開のフランス映画として、ロマン・デュリスが「私達」として生き始める「パパは奮闘中!」と、カーテンを閉めていたヴァンサン・ラコストが周囲を受け入れる本作とは、「子どもの保護者になる」という筋だけではなく男性が誰かに頼る、誰かと共に歩む感覚を掴むまでの話という意味でも通じるところがある。