サマーフィーリング


「アマンダと僕」(2018/感想)のミカエル・アース監督の2015年作。

「アマンダ」でも印象的だった公園と開かれた窓に映画が始まるのに、作家とはモチーフを繰り返すものだと思う。しかし同じものが違うことを語るために用いられている。冒頭、身支度を済ませたサシャが公園をゆく目つきは用心深く、帰宅途中の彼女が倒れても誰も近寄らない。前作では共同体の力強さの象徴のように見えた公園が、本作では、サシャがロレンス(アンデルシュ・ダニエルセン・リー)に提案する小説のタイトルが「地下鉄で公園へ」であることからも分かるように、二人がまだ到達していない、その一員ではない世界を表している。それは後に彼がジョシュア・サフディ演じる友人に漏らす「世界との距離感が掴めない」ではっきりする。

「アマンダ」のダヴィッドは姉の死により残された姪のためその家の簡易ベッドで寝泊まりすることになるが、本作のサシャの妹ゾエ(ジュディット・シュムラ)は息子を送りがてら別居中の夫の、かつては自らも住んでいた家でソファに寝る。近しく大切な人の家だが自分の居場所ではないところに眠るというこの場面で(後に彼女は「リビングは外の音がうるさい」と夫のベッドに入るが)、前作と重なる要素を多く託されているのが彼女であると気付く。彼女は住まいを持たず、前作で短期滞在者向け住居の案内人をしていたダヴィッドのように街にやって来る人を迎える仕事をしてもいる。

アヌシー湖で皆から離れて一人泳ぐゾエ、「どこにも居場所がない」と口にするイーダもロレンスと同じく世界のどこにも足を着けていない(この辺りをいきなりセリフで説明してしまうあたりはまだ青いと言える。かっちりした映画が好きな私はそれゆえ「アマンダ」の方が好み)。しかしとある鮮烈な、愛の交歓とでも言うような時を経て、映画の終わり、世界の色々な場を映したフィルムにロレンスとイーダがふと写り込んでくる。二人は世界の一部になったのだ。鮮烈な画面だった。