ペパーミント・キャンディー/グリーンフィッシュ

特集上映「イ・チャンドン レトロスペクティヴ4K」にて、滑り込みで二作を観賞。


▼久しぶりに見た『ペパーミント・キャンディー』(1999)は大傑作だった。チェ・ジョンヨルの『グローリーデイ』(2015)を見た時、これは韓国の男性は美しく生まれるがみな汚れてしまうという話だと思ったものだけど(そして監督の次作『スタートアップ!』(2019)ではその理由の一つがはっきり口にされていたけれど)、その既視感、大元はやはりここにある。汚れてしまった手でホンジャ(キム・ヨジン)の尻を、先輩の、つまり韓国社会の真似をして触るところ(妻に初めて触れるのがこれなんだから、私達が先に見ている未来は推して知るべしなのだ)から涙があふれて最後まで止まらなかった。この映画に則って言えば、韓国人、いや韓国の男性にとって初恋が特別なのは自分が美しかった時の記憶だからである。

最終章に近付くまではおよそどこをどう切っても関わりたくない男であるキム・ヨンホ(ソル・ギョング)に次から次へと女が優しくしてくれるのは、そんなにも人の恵みがあったのに…ということかもしれない。象徴のペパーミント・キャンディーが落ちて踏まれるのを皮切りに、兵舎から戻るスニム(ムン・ソリ)に男達が女だ女だと騒ぐのを一兵の彼が止められるはずもない(彼女がはにかんで笑っているようにも見えるのを、男達は喜んでいると受け取るだろうか)。男が汚れていけばその被害をもろに受けるのが女であり、だからホンジャもあるとき足をひきずる仕草を見せる。


▼未見だった『グリーンフィッシュ』(1997)は私には先の『ペパーミント・キャンディー』とセットに思われた。列車の中で絡まれている女を助けるも例によって男同士の殴り合いに発展する冒頭には、マクトン(ハン・ソッキュ)が光州事件を体験したヨンホの十数年後に通信兵として除隊するまで「汚れ」はしなかったということ、それでも否応なく男の闘争に巻き込まれ女とは離れ離れになり目的地に辿り着けないであろうことが示されている。これは「人を殺してしまってから」ではなく「人を殺してしまうまで」の話、再開発のふもとの一見「普通の幸せ」が何の上に成り立っているかという話である。

母は家政婦、妹は母に工場と偽りチケットタバンで働いている(90年代の地方のチケットタバンや大箱のクラブ、背後の暴力団といった要素はちょうど配信中のドラマ『ムービング』を思い出させる)。家の女達にそんな仕事をさせたくないマクトンはおれが稼ぐからと違う家族…テゴン(ムン・ソングン)をボスとする暴力団に入る。それは「法に触れずに」大金を稼ぐシステムで、列車の女ミエ(シム・ヘジン)もその一部であった。身内の女を救うためによその女の涙を見過ごすしかないという状況だ。物語は悲惨に慣れた女がすがろうにもすがれなかった純粋な魂の敗北を目にするのに終わる。

このような設定の映画を見ると往々にして男同士で女を共有してるだけじゃんと白けることになるが、イ・チャンドンの世界では、本作の宣伝の文言にあるように全員がアウトサイダー(というのはちょっと違うと私は思うんだけど、要するに「一人」)なのでそのような感じが皆無でよい。だからこそミエのマクトンを拠り所にする心持ちや自分を囲っているテゴンに対する複雑な気持ちが伝わってくる。一方で俗っぽいがゆえにこの世界では逆にルール外の人間を演じているのが映画界ではまだ無名だったソン・ガンホで、彼の妙のある演技が役に説得力を与えている。

『ペパーミント・キャンディ』のヨンホは「仕事」で待ち合わせに遅れ女に会えないが、『グリーンフィッシュ』のマクトンは遅れるも一緒に列車に乗ることができる。ヨンホは既に女と違う世界の住人で、マクトンとミエは同じシステムの中にいるからだろう(従ってその支配から逃れることはできない)。女に対する異常なまでの所有欲(「浮気」に対する制裁)、暴行時にうんこ・おしっこをかけられる、自転車・車でぐるぐる回るなど二作にはテーマの他にも同じ要素が多々見られ面白かった。