ロスト・キング 500年越しの運命


スティーヴ・クーガンの関わる映画に外れなし、スティーヴン・フリアーズとの組み合わせなら尚のことと思っているので初日に観賞。当初プロデュース兼共同脚本兼、サリー・ホーキンス演じる主人公フィリッパ・ラングレーの「背景」的な役かと思いきや重要なピースだった。「君は頼むふりをして銃をつきつける」との言葉にはミソジニーも滲むが、私が思うに大方の男性は女性を好きになると惧れを抱くものだ…から大変リアルに響いた。ソール・バスふうのオープニングタイトルに意表を突かれ、音楽からもジャンルが読めず少々混乱しつつ見始めたんだけど(見ながらもreservedのRの上に立つ場面などスリラー映画のような演出に驚かされた)、それもそのはず、幾多の要素が絡まっており夫婦のロマンスもそのうちだった。

「子ども達のためにも失業したら困るだろ」とはまたクーガン演じる元夫ジョンのセリフだが、フィリッパが職場を捨てたのは、その努力を理解し親身になってくれる同僚がいようとも自尊心が傷つけられたからだ。いわく「皆は私を筋痛性脳脊髄炎(ME)の人としか見ない」。その上いやな奴、考えなしの奴は他者の属性をいいように利用する。君にはこれが一番なんだ、大変な仕事から距離を置いた方がいいんだと病気をだしに使う。自分は決して「MEの人」ではないが、病気の人、例えばリチャード3世が偏見の目で見られているとなれば「背中が曲がっていれば心も歪んでるってこと?」と反論する。こうした文脈ごとの主体の在り方こそが今、もっと理解されねばならない問題だろう。

これはまずもって「奪われた声を取り返す」物語である。リチャード3世協会に属していると名乗るやああファンクラブねと揶揄されるのを始めフィリッパは主に大学関係者(ここでは大学は「ビジネス」だとされる)に散々馬鹿にされるが、遺骨が発掘されると彼らが名声を攫っていく。このことがリチャード3世の人物像が勝者であるテューダー家によって歪められたことと重ねられている。映画の終わり、彼女は祝賀会への出席よりも女子校での講演を選び、自身の「声」を少女達に向けて行使するのだった。ちなみにフィリッパの前に『リチャード三世』を演じた役者(ハリー・ロイド)の姿でリチャード3世が表れ会話も交わすのは、彼女がばらばらになっている調査結果をまとめた結実のように私には思われた(勘とはそういうものでしょう)。