マーティン・フリーマンのスクール・オブ・ミュージカル



「かつて俳優を目指していた小学校教師」が主人公となれば、まず気になるのはその心持ち。邦題の元である「スクール・オブ・ロック」のJBは「教員じゃない」から問題外として(笑・映画の面白さとは別ね)例えば「ロック・ミー・ハムレット!」のスティーヴ・クーガン演じる高校教師は異常なほど演劇に固執していた。この手の映画における教師は往々にして、「教師」の面に重きを置かれていないものだ。
本作はマーティン演じるポールが自らの過去を紹介するナレーションで始まる。「これが演劇学校時代の僕…馬鹿みたいでしょ」。それは教員になった現在を肯定するための認知の歪みには思われない。教室において、すぐに怒鳴ったり罰を与えたりと傍目には「つまらない先生」に見えても、彼には教員としての矜持がある。このあたりは「アデル、ブルーは熱い色」のアデルを思い出させる(彼女だって十分「先生」として頑張ってた)。演劇が好きだけど先生にもなりたい、どちらにも大した「才能」があるわけじゃない、そういう「普通」っぽさがいいなと思った。


学級担任といえば、教室にその人となり(「先生となり」と言うべきか)が表れるものだから、まず教室を見るのが楽しい…はずなんだけど、背景に「セット感」があるので、マーティンが作ったんだ〜と全く思えない(笑)過剰な教室と質素な自宅、というのは確かにポールの「今」を表してるようだけども。
この映画は「普通」を描いていながら「現実味」が無い。それはひとえに、マーク・ウートン演じるミスター・ポピーのキャラクターによる。資格を持たない彼が、校長の甥だからという理由でポールの「助手」となり子ども達をあちこちへ連れて行くという描写が、私にとってはあまりに「浮き」すぎていた。
見ながら「ラブ・アクチュアリー」を思い出してたのは、私がマーティンをそこで初めて認識したから、どちらもクリスマス映画だから、どちらも子どもの「発表会」がクライマックスで、歌われる曲の数々が「恋愛」に重きを置いたものだから、など色々だけど、一番の理由はこの「現実味」の無さに通じるものがあるように思われたから。「ラブ〜」ならその作り込まれた枠に乗って楽しめるけど、素朴な作りのこの映画には少々入り込み辛かった。マーティンの「演劇」的な演技と、子ども達の素の漏れる存在感との組み合わせはよかったけど。


ポールのキャラクターは、マーティン・フリーマンの(「良い」?)イメージの結晶のようなものだから、彼については、メニューの写真通りに美味しいものが食べられた、という感じ(笑)それこそどこにでもいる「真面目な」中年男性が、ちょっと調子に乗った、ちょっと気が迷ったせいで周囲をトラブルに巻き込み/巻き込まれ、「空気の読めない」相棒に振り回される。ソファで犬と戯れたり、スーツ姿で姿勢よく自転車に乗ったり、ビルボよろしく(ビルボ以前の作品だけど)持ち上げられて運ばれたりとサービスカットもいっぱいだ。
校長に劇の担当者として指名されたことに文句を言いつつ、帰宅するとすぐに「ナザレの歌」をあれこれ歌ってみる、犬にどちらがいいか聞いてみる、というシーンや、子ども達のことを「役立たず」と言っておきながら、オーディションの時に彼らの歌を聴いて、自分の愛の思い出にふとひたってしまうというシーンなどがいい(笑)


原題の「Nativity」とは「生誕祭」、ここでは「世界中の学校でクリスマスにやる劇」のこと。ポールのような先生、彼の受け持ちの子達のような生徒達は、世界に星の数ほどいる。でも、ハリウッドのプロデューサーにとってはそうであっても、彼らの間の関係は唯一無二のもの、そういう話だ。
「本番」の前に校長先生は「私の子ども達」について「これまで期待とは無縁でしたが、今日は違います」と言う。「変化」は、いや全ては人それぞれにおいて在るものであって、比べるものじゃない。でもって、なぜ「今日は違う」のかというと、ひょんなことが切っ掛けで、「思い切ったこと」を「一生懸命練習した」から。それもまた、もしかしたら誰にでも訪れる可能性のあるものなのかもしれない、なんてことを思った。