みんなの学校



「全ての子に居場所のある学校」を目指す、大阪市立南住吉大空小学校の一年を追った作品。関西テレビ放送制作のドキュメンタリーを劇場版として再編集したものだそう。とても面白かった。


オープニング、スクリーンが真っ暗な内にまずざわめきが、一瞬遅れて映像が出る。鳥の声が仮に無くても「朝」の登校風景だと分かるだろうから不思議だ。続く朝礼の描写では、校長先生の話の内容に、大阪における「自分」という言葉には他の地域には無いニュアンスが含まれているのかもしれない、なんてことを考えた。


まだ本採用されていない講師が初めて担任するクラスの児童が一人、連絡も無く欠席すると、校長は「学校の中(にいる子)は他の人に任せればいいから」と授業中?に家に向かわせる。「普通」の学校ではあまり無い流れだろう。「全ての大人が全ての子どもを見る」と決まっているからこそ出来ることだ。
その後、校長は「分かったつもりになってはいけない」と語るが、彼女を始め経験豊かな教員は、傍からは、「分かったつもり」で瞬時に決定し行動しているように「見える」。学校には「それ=先生の信念」が絶対に必要だ。そのためか彼女達(カメラが捉える教員の殆どが女性)には皆、ある種の威厳が備わっている。もしかしたら学校外の人には、あの行動力のようなものは「怖い」と映る時があるかもしれない。


カメラは子ども達ではなく先生達を追っている。教員の仕事は子どもを追うことであり、それこそが「学校」なのだから(そこに「学校」が発生する、とでも言おうか)、それで「正解」だと思う。子ども同士の場面も何度か見られるけど、それは彼らの持てるものを「引き出」した「結果」であり、このようなテーマのドキュメンタリーでは「引き出」す「過程」の方が大切だ。
転校を繰り返してきたある子の母親が「初めて来た時、クラスの子達が、他の学校とは違って、『こういう子なんだ』と受け入れてくれた」と話していたけど、この作品は、スタッフの努力に加えて、子ども達の「受け入れ態勢」のおかげで成立してるんだろう。安定した環境で無いと撮れないと思われる表情が沢山収められている。ある程度「主観」ありきとはいえ、ドキュメンタリーは「本当」だから、こんなふうに物事の辻褄が合う。それが面白い。子ども達に分かりやすい「キャラクター」が貼り付いていないのも、この学校が「ありのままを受け入れている」から。


それにしても、先生達はあれらの「仕事」に加えて授業研究や学級運営をしてるのかと思うと(それらがなっていなければあの安定感はあり得ない)、胃が痛くなるのを通り越して気が遠くなる!校長がぽろっとこぼす「なんで給料が下がるのか」って、ほんとにその通り。
異動して来たばかりで6年を受け持つ教員が「既に出来上がった学級を持たせてもらっている」と言う、そのプレッシャーもしみじみ伝わってくる。言うなれば、自分の順番までトップで繋いでるリレーのアンカーを受け持つようなものだから。ともあれどの先生も、応援せずにはいられなかった。


最後にもっと「個人的」な感想(個人的でない感想があるのかというのはさておき、そう言い訳しておきたい・笑)私は子どもの頃、誰も彼もによくしてもらい、「学校」では楽しくてしょうがなかったけど、それって誰とも何も分かち合っていなかったのかもしれない。「みんな」とは関わっていなかったから。
子どもって、放っておいたら楽な方にいってしまう。若者だってそう、誰だってそう。それがダメってわけじゃないけど、「学校」はそういう場所じゃない。学校って、面倒なことをするところだと思った。