アイアンクロー


アメリカによるモスクワオリンピックのボイコット宣言をリビングのテレビで見る一家。四男ケリー(ジェレミー・アレン・ホワイト)の五輪出場の夢は潰える。父フリッツ(ホルト・マッキャラニー)は後に「世界はおれたちの夢を壊しにかかる」と言うが、大きな家父長制に守られない(あるいは、そう思っている)小さな家父長制、その齟齬というようなものを感じ、『トゥルー・ヒストリー・オブ・ザ・ケリー・ギャング』(2019)が脳裏に浮かんだ(そのせいか始めハリス・ディキンソンをジョージ・マッケイと勘違いしながら見ていた)。

終盤リック・フレアーがテレビの中で「このスーツは8万ドル、こんな(司会者の服を指し)安物着てられないぜ、おれはスターだ、リムジンの脇で女が列を作って待ってる」とふかした試合で次男ケビン(ザック・エフロン)にとんでもない目に遭わされるも「飲みに行かないか?ホリデーインにいるから」と帰るところで映画に違う風が吹く。リムジンは?女は?プロレスってそういうものなのかと思う(無知だけど、この作品の中では)。彼は先のマイク芸の後半「ここからはつまらない現実だ」と話していた。多くの男は「男」を演じてもいるが、ケビン達の「男」は自身から剥がれることがなかった。序盤の収録で彼がとちりまくるのも無理はない。

義足を付けて歩く痛みに一人ファック!と叫ぶケリーだが、リングでの練習では耐えに耐える。本気の相手を頼まれたケビンは「痛みは隠せないぞ」と言うが、彼らの痛みの行き場はない。そんな二人を背に五男マイク(スタンリー・シモンズ)は森の中へ消える、better placeへ行くと書き残して。後にケリーが向かった、ここよりいいに決まっている場所にはただ兄弟がいるだけだった、兄弟しか知らないから。ケビンがパム(リリー・ジェームズ)から受けたハグのような身体接触も経験がないから。両親もいない。それが彼らの安息なのだ。

映画は父フリッツと母ドリス(モーラ・ティアニー)を「悪役」として描いてはいない。作中最初に登場する朝の食卓はにぎやかながら体を大きくするのが第一の目的、家族内の確固たる役割とランキングもあり安らげるものではない。卵にベーコンをせっせと焼いていたドリスは映画の終わりには食卓の脇で遠い昔から久しぶりに絵を描いている。まさかフリッツの方も音楽を再開したりはしなかったろうが、しかしあの二人は二人でそれなりに、あの後「普通」の食卓を持ったんじゃないか、それは悪くないと想像した。